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  柔道物語
    フジテレビ スポーツ局 磯部 晃人 2007

 1回 巨人ヘーシンクは古賀、吉田より小さかった!?

「オランダの巨人」アントン・ヘーシンクは「平成の三四郎」古賀稔彦よりも小さかったと聞いたら、100人中100人が「そんな馬鹿な!」と思うでしょう。
ヘーシンクは神永昭夫を破って優勝した64年東京オリンピックの時には198センチ、120キロ弱、65年のブラジル・リオデジャネイロでの世界柔道で優勝した時は125キロ、73年に全日本プロレス入りした時は140キロ以上はあったと言われています。

もっとも、ヘーシンクは太りやすい体質で、東京五輪やリオ世界柔道の時は、平常時の体重は1323キロ以上はあったらしいです。この頃には減量して試合に出ていたのです。だから、ヘーシンクの体重と一言で言っても、いつのヘーシンクを基準にして考えて良いのかが、なかなか判断しにくいのは事実です。つい最近も来日したヘーシンクは全日本選手権を観戦していましたが、73歳となった現在は、150キロは軽く超えているのではないかというような恰幅のよさでした。

また、ヘーシンクは、ヨーロッパ選手権で、無差別級10回、段位別4回(初期の大会に存在した)、重量級6回の計20回もチャンピオンになっています。重量級に出場する際には計量の義務があったわけですが、これもきちんと行っていたのかどうか、どうも怪しいのです。
リオ世界柔道の重量級の試合前に計量せよというと、「俺が軽量級や中量級に見えるのか!」と不機嫌そうにうそぶいたという話が残っているのです。
確かに、当時は80キロを超えれば重量級だったわけで、巨漢のヘーシンクに計量を受けさせるのは気の毒な気がするがルールはルールです。しかし、あくまでも推測ですが、オランダ国内や欧州の大会ではヘーシンクの計量が免除されていた可能性が全く無いとは言えないでしょう。

当時の重量級の外国人選手は、そもそも無差別級と重量級を分けることの意味さえわかっていない選手が多く、重量級では計量を行う必要があることさえ、よく理解していない選手が多かったようです。東京五輪ではマレーシアのアン選手が重量級にエントリーしましたが、80キロ(重量級の下限)を超える体重に達せず、計量で失格するという笑うに笑えない話が残っています。体重オーバーで失格する選手はいくらでもいますが、体重不足で失格した選手は、おそらく柔道史上でこのアンだけだと思います。アンは計量を行わなければならないことすらも知らずにノコノコ来日してしまったのだと思います。

90年全日本選手権(無差別)で史上最軽量の75キロで決勝戦に進出し、巨漢小川直也と夢の対決を実現し、「71キロ級」で92年バルセロナオリンピックを制した小兵の古賀がヘーシンクより大きかったなどと誰が信じられるでしょうか!?

しかし、これは事実なのです。むろん体重の話です。169170センチの古賀がどんな高いシークレットブーツを履いたところで、198センチのヘーシンクの身長を抜くのは無理な話です。また、小学生の頃のヘーシンクより大人になった古賀の方が体重が重かったなどというくだらないオチのある話ではありません。

ヘーシンクは61年パリの第3回世界選手権で前回王者曽根康治を押さえ込んで史上初の外国人世界チャンピオンに輝いた時には、既に完成された重量級で、当時108キロという記事が残っています。当時の写真を見てもガッシリとした逞しい体格をしています。しかし、ヘーシンクは第1回(56年)、第2回(58年)にも出場しており、第1回大会では3位に入り、その頃から、「将来の日本の強敵」として注目されていたのです。

さて、第1回〜3回世界選手権は、まだ体重別が採用されておらず、全て体重無差別の大会でした。つまり、体重別試合なら出場選手に試合前に義務付けられる計量が無かった時代なのです。選手の身長、体重は全て出場申込書に記載する自己申告によって、パンフレット等に記載されていたので事実と異なる体重が公式なものとなっていたケースも多いのです。体重の少ない者は多めに申告する傾向があったと思われます。第1回世界大会の時、ヘーシンクの体重は98キロとされていました。

しかし、筆者はこの第1回大会の「98キロ」という体重には大きな疑問を持っていました。第1回大会当時のヘーシンクの写真は何枚か残っていますが、どの写真を見ても、ガリガリにやせ細っており、当時の新聞記事を見ても「痩せぎすな長身」というような形容詞が頻繁に使われているのです。どう見ても98キロもある選手には見えませんでした。

この疑問に答えを出してくれたのはヘーシンク本人でした。IOC委員として当時冬季五輪の候補地だった長野に視察に訪れた際のインタビューで、「実は、第1回大会の頃の私の体重は82キロしかなかった。」と答えているのです。無差別級なので、体重の軽すぎる彼は当然減量はしていません。平常時の体重で正味82キロということです。

この本人の告白を補足する重要な史料も発見しました。柔道家・道上伯の生涯を綴った「ヘーシンクを育てた男」(著/眞神博 文芸春秋社)での、道上のヘーシンクとの初対面(第1回大会の前年の55年)の印象です。「道上の目にとまったのは、アントン・ヘーシンクという顔色の悪い建設労働者の青年だった。身長が198センチ、体重85キロほど、顔が細く、首も手脚も長い。まるでビール瓶のような男だな、と道上は思った」とあります。
第1回大会の1年前の話で、「体重が3キロ」ヘーシンク本人の話とずれていますが、道上は著者の眞神氏が執筆中に89歳で亡くなっており、高齢のご老人の遠い過去の記憶を基にした取材であることを考慮すれば、多少の誤差が出るのはむしろ当然のことです。
「ヘーシンクより古賀の方が大きい」というのは、「瞬間」の話なのだが事実なのです。

 
1956

1995

 
東京世界柔道
幕張世界柔道

 
ヘーシンク
古賀稔彦

 
22

27

平常体重減量後出場階級
82
キロ
85
キロ→78キロ級優勝

ここで読者より「体重を比べるなら同一年齢時で比べないと無意味だ!」とクレームが入りそうです。確かにそれには一理あります。同一年齢時で比べたら、古賀がヘーシンクより大きかったという事実はありません。先に書いた全日本選手権に準優勝した時の古賀がちょうど22歳で、その時は正味75キロでした。
それでは古賀の話はここで一旦終わりということにしておいて、同じく中量級の吉田秀彦をヘーシンクと同一年齢時の体重で比較してみましょう。

 
1956

1991

 
東京世界柔道
バルセロナ世界柔道

 
ヘーシンク
吉田秀彦

 
22

22

平常体重減量後出場階級
82
キロ
88
キロ→78キロ級3位

ここでは同一年齢時で比較しても、吉田のほうが6キロも重かったということがわかります。
尚、古賀、吉田の平常時の体重は、全日本柔道連盟専属の栄養士の記録に基づいているので、間違いの無い情報です。

ちなみに、オールド・ファンのために、もう一つネタをご提供すると、中量級ながら体重無差別の全日本選手権を制覇した2人、岡野功、関根忍は、全日本優勝時の正味の体重は、岡野845キロ、関根86キロでした。さらに、岡野(2度優勝)に関しては初優勝の時は23歳だったので、ほぼ同一年齢時の体重でヘーシンクと大差なかったことがわかります。

「大巨人」ヘーシンクが古賀や吉田より小さい時期があったなんて、本当にウソのような話ですが、これは実話なのです!

 

第2回 ウィリエム・ルスカの「釣り込み腰」と幻の名技「山嵐」

 

私は、かれこれ四半世紀以上、柔道会場で観戦をしていますが、一度もお目にかかったことがない技に「山嵐」があります。西郷四郎が編み出したと言われ、西郷をモデルとした「姿三四郎」の小説、映画やテレビドラマですっかり有名になった大技ですが、その名前は一般の方でも誰でも知っているのに、ほとんど誰も見たことがないという「ツチノコ」や「ヒバゴン」(古い!)のような技です。

すごく乱暴に言うと「(1)片襟逆手の背負い投げ、釣り込み腰系の担ぎ技」と「(2)払い腰、足車系の払い技」をミックスしたような感じの技で、技術解説書等を見ても、どうもスッキリとした説明はしにくい技なのです。お手数ですが、柔道の解説書で見てみてください。「山嵐」っぽい技は、ごく稀に見たことがありますが、柔道の決まり技は、最終的に決まった形で判断されますので、結果的には「背負い投げ」「釣り込み腰」「体落し」「払い腰」「足車」などと判定されることが多いようです。

 

さて、この山嵐、西郷四郎がこの技を得意技とできた理由として、

(1)西郷は153センチと背が低く、身を屈めなくとも相手を容易にかつぐことができた。
(2)西郷は足の指が内側に湾曲している「タコ足」だったため、足指が畳をつかむような独特のバランス感覚を持ち、足腰が異常に強かった。

ということがあげられています。これらの条件を見ると、天才・野村忠宏選手あたりなら、山嵐ができるんじゃないかという気がしますので、是非一度でもやって欲しいものです。

 

さて、表題のウィリエム・ルスカに話を移しますが、私が柔道を見始めた時期に、「山嵐」っぽく見える技をやっていたのが、このルスカです。ルスカの得意技は釣り込み腰、体落し、大外刈り、大内刈り、支え釣り込み足などでしたが、私が特に好きだった技は釣り込み腰です。
子供の頃に何試合かテレビで見た程度で、あまりルスカの柔道のことを語るのはおこがましいのですが、幸いにもミュンヘン五輪の試合映像VTRは後にほとんど全試合見る機会があり、またルスカに関する記録や談話を調べたり、柔道関係者の方のお話しを伺ったりすることができました。

その結果、最もルスカらしい豪快な技は、釣り込み腰だという勝手な思い込みが芽生えました。最近試合でよく使われる技は「袖釣り込み腰」ですが、ルスカのは「釣り込み腰」です。ここでは便宜上「本釣り込み腰」と書かせてもらいます。本釣り込み腰は最近ではめったに見ることはできません。ルスカは背筋力320キロとハンマー投げの国際選手級のパワーを誇っています(ちなみに井上康生は背筋力200キロと自身のHPに書いています)。また、ルスカはミュンヘン五輪当時に東大で測定した結果、上腕屈筋の力と筋収縮のスピードが、並外れて高いことがわかっています。

 

これは、「引き付け」の力が異常に強いということの証明となります。あの筋肉隆々の体からは意外な印象がありますが、ルスカはウェート・トレーニングは専門的にはやっておらず、自然や身近な器具を利用したトレーニングを重視していたということで、パワーだけではなく、肺活量や持久力にも優れ、日本で修行中に長距離走を行ったところ、日本の軽量級や中量級の選手が全く追いつけないほど速かったそうです。
ルスカはグレコローマン・レスリングのオランダ王者にもなっており、レスリング流の走ることを基本としたサーキット・トレーニングにも慣れていました。

ルスカは高校卒業から4年間、海軍に勤務しており、船員には必須のロープを引く訓練で、上腕屈筋や背筋を鍛えたといわれています。余談ながら、海の男ルスカは水泳も達者で、趣味のヨットでは、86年にカタマラン(双胴艇)のオランダ選手権で優勝しています。

ちなみに、「本釣り込み腰」にも2パターンあって、講道館の「投の形」で定められている通り、「自らの身を屈めて、釣り手で相手を釣り上げて担ぎ、背負い投げの要領で投げる」のが正統派バージョンですが、ルスカの場合は、「自らは身を屈めずに、相手を自分と同じ高さまで引き付け、胸を合わせて腰に乗せて投げる」応用形バージョンです。

このルスカ流の釣り込み腰は、他の選手ではめったに見たことがないのですが、モスクワ五輪95キロ級金メダリストのロベルト・バンドワール(ベルギー)がやはり、このタイプの釣り込み腰をやっていました。日本人ではちょっと記憶が無いのですが、81年の世界選手権78キロ級銀メダルの加瀬次郎がややこれに似た引き付ける釣り込み腰をやっていたような気がします。
この技の使い手の共通点は上腕屈筋の力が強いことです。そういえば、加瀬次郎は昔、テレビ東京でやっていた「勝ち抜き腕相撲」で17週連続勝ち抜きの番組新記録を作ったのを覚えています。髪の毛は薄かったですが(失礼)、腕力はとても強い方でした。

話が脱線してしまいましたが、そんなルスカの繰り出す本釣り込み腰は、相手を引き付けてから、そのまま釣り込み腰で投げきるか、内股や払い腰、体落しの形で足を添えて投げるなど、幅広いバリエーションを持っていました。いずれにしても、「上半身の引き付けの強さ」で7割方は相手を崩し、残りの3割で相手の下半身をコントロールして投げ切るという感じでした。

最も印象的な試合は、ミュンヘンオリンピック重量級決勝での地元・西ドイツのクラウス・グラーンとの一戦です。結果から先に言うと、ルスカはグラーンを豪快にブン投げて、無差別級との二階級制覇の一冠目を手にしたのですが、これが実に何だかよくわからない技でした。後年出版された柔道記録を見ると全て「体落し」となっているようなので、公式記録は体落しとなったのでしょうが、あれはたぶん体落しではありません。例によって、「本釣り込み腰」風に技に入って、体落しのように踏み込み足を出してはいますが、踏み込み足は畳に着いておらず、軽く相手の足に添えられているだけなのです。体落しというよりも、むしろ、「内股気味の釣り込み腰」というのが当らずとはいえ、遠からずといった感じでした。ルスカは体落しも得意技の一つでしたが、それとは明らかに技の入り方が違っています。

面白かったのは、日本のメディアの対応です。
決まり技について、朝日は「内股」、毎日は「払い腰」、読売は「体落し」、講道館の機関誌柔道は「内股気味の体落し」と全部違う報道をしたのです。67年の世界柔道重量級初優勝の時にも、決勝で前島延行を「釣り込み腰(公式記録)」で破った際に、読売は「体落しのような釣り込み腰」とし、柔道新聞では「釣り込み気味の右体落し」と二通りの記事があったのには笑ってしまいました。

またまた話が遠回りになってしまいました。
そんなルスカの「本釣り込み腰」は、様々な応用形がありました。本文の最初に「柔道の決まり技は、最終的に決まった形で判断される」と書きましたが、ルスカの「本釣り込み腰」は極めて「山嵐」と似ている技でした。本人が自覚して応用していれば、幻の名技「山嵐」を復活できたのではないかと、ルスカの大ファンの私は勝手に思い込んでワクワクしているのです。山嵐を掛けるには、釣り手を片襟逆手に持ち替えなければならないのですが、握力が強く、器用に左右の技ができたルスカならば、組み手も状況に応じて変えることができたでしょう。
ルスカの山嵐!とっても見てみたかったです……

200111月、ルスカは愛妻とともにスペインにバカンスに出かけ、大好きなカタマランで航海中に脳梗塞で倒れ、現在も療養中とのことです。1940年生まれで現在66歳とまだまだ若いルスカの一日も早い回復をお祈りしたいと思っています。

 

第3回 史上最大の偉業を達成した無名柔道家クラウス・ワラス

 

突然ですが、読者の皆さん、クラウス・ワラス(オーストリア)という柔道家をご存知ですか?いえいえ、ご心配なく。知らなくて当然です。ヘーシンク、ルスカと超有名柔道家でスタートした、このコラムですが、第3回目はいきなり無名選手へとトーン・ダウンさせていただきます。といってもご心配なく。興味を持っていただけるネタはきちんとご用意しています。

116勝無敗3引分」。この数字を聞いてピンとくる方は、柔道ファンの中にはいるかもしれません。そうです、世界の山下泰裕の対外国人全成績です。「3引分」は団体戦でのもの(旧ソ連・ノビコフ×2、フランス・ルージェ×1)ですので、実質的には全勝です。
ミュンヘン五輪の後の日本人世界王者で生涯に渡って一度も外国人に負けたことの無い選手は、園田勇、藤猪省太、上村春樹、そして山下泰裕の4人だけです。山下以降外国人に負けたことの無い「絶対王者」は一人も誕生していません。

山下からポイントを奪った外国人も78年嘉納杯の旧ソ連・チューリン(大内返し)と84年ロス五輪のフランス・デルコロンボ(大外刈り)の「効果」の2つだけだと思われている方が多いようで、新聞や雑誌の報道でも、そのように伝えられています。

ところが……。このクラウス・ワラスが実は、「柔道史上最大の偉業」を達成しているのです。その偉業とは、ナント、天下の山下泰裕からイッポンを奪っているのです!!昭和51年東海大相模高校を卒業する直前の1月のフランス国際柔道重量級準決勝のことでした。当時の様子を山下本人の著書「黒帯に賭けた青春」から抜粋してみましょう。

「小内刈(効果)で先行され、焦った私は中盤大外刈を放って勝負に出る。ところがこの出鼻をものの見事に足払いで切り返されてしまう。『イッポン』。とっさにコーチのほうを見ると、うなだれて通路を引き返す岡野功先生の姿が見えた」とあります。

高校在学中とはいえ、当時の山下は前年の全日本選手権で3位に入賞し、日本のトップレベルにいる上村、遠藤、高木、二宮のいわゆる「四強」を猛烈な勢いで追走し、世界へ羽ばたこうとしている伸び盛りのホープでした。その山下が無名のオーストリア人にものの見事に投げ飛ばされたのです。

1953年生まれのワラスはオーストリアの国内チャンピオンではありますが、ヨーロッパ選手権では3位以内に入賞したこともない中堅レベルの選手でした。身長188センチ、体重107キロと重量級ではごく標準的な体格で、モントリオール五輪では重量級と無差別級の2階級に出場し、アレン・コージ(プロレス入りしたバッド・ニュース・アレン=故人)などと対戦しています。ワラスは後に無差別級6位という経歴が紹介されていますがそれは誤報であり、入賞はしていません。ただ、足技だけは得意中の得意で、勝利のほとんどは足払いで奪っている足クセの悪い選手でした。

さて、話は山下×ワラス戦に戻ります。ワラスの「出足払い」はものの見事に決まり、岡野功コーチが何の抗議もせずに、「うなだれて通路を引き返した」位ですから、この技は「一本」といってもいい技だったと思われます。

ところが……、ここで副審2人が「技あり」への訂正のポーズを取ったのです。ナント、山下は「一本」の危機を紙一重の差で脱出することができたのです。
息を吹き返した山下は、ワラスがなおも出足払いに攻めるのを押しつぶして横四方固めで逆転の一本勝ち!ワラスの偉業は、「山下から一本勝ち」から「山下から『幻』の一本勝ち」へと格下げされてしまったのです。

クラウス・ワラスのストーリーはここで終わりません。さて、読者の皆さんの中に柔道も見るけど、プロレスも好きという方はいませんでしょうか?もし、大のプロレス・ファンだとしても、クラウス・ワラスが78年(昭和53年)、プロレスに転向したということはおそらく、ご存知ないでしょう。そうです、ワラスはプロレスの世界でも中堅レスラーのまま消えていった選手なのです。

プロレスデビュー以来、比較的順調にキャリアを重ね、83年(昭和58年)には伝統あるドイツのハノーバー・トーナメントを制し、欧州ヘビー級王者を獲得するなど、80年代のヨーロッパでは良い役回りについていました。しかし、彼は「売り出し」の方向性を間違えてしまったとしか言いようがありません。柔道出身なのだから格闘技性を前面に押し出した方が良かったと思うのですが、何故か中途半端なパワー&テクニックのマッチョ系のスタイルに固執してしまいました。確かに、ルスカのような柔道選手としての金看板があるわけではないので、仕方が無かったかもしれませんが……

85年全日本プロレスに初来日したものの、ヨーロッパのトップとしての扱いを受けることなく、中堅クラスのマッチメークしか与えられず何のインパクトも残さずに帰国。
86年、何を思ったのか、フランス・ニースで行われた、「ワールド・ストロンゲストマン・コンテスト」(現在で言えば、「筋肉番付のメジャーリーグ版」といったイベント)に出場し6位に入賞しました。おそらく、マッチョ系レスラーとしての箔をつけたかったのかもしれません。そして、直後の86年5月、今度は新日本プロレスの第4回IWGP王座決定リーグ戦に2度目の来日を果したのです。

当時の新日本プロレスは、ストロングスタイルが売り物でしたので、ワラスにとっては、格闘技系キャラクターに転向する絶好のチャンスだったのですが、またもマッチョ路線で扱われてしまいました。プロモーターは外国人選手に必ずキャッチフレーズを付けます。
「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックとか「黒い魔人」ボボ・ブラジルとか「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノとかいう、「 」の部分に入るコピーのことです。

ここで総合格闘技全盛の現在のプロモーターなら「山下から幻の一本を奪った男」というコピーを迷わず選ぶでしょう。ところが、ワラスに与えられたキャッチフレーズは思わず、ズッコケるものでした。

「ワールド・ストロンゲストマン・コンテスト第6位」クラウス・ワラス!!
ナント、そのまんま東じゃん!しかも、「優勝」ならともかく、「第6位」じゃ、何の箔も付かないし!(第6位でも、一般人から見たら驚異的なアスリートではあるが……。)

そもそも、ハルク・ホーガンがマッチョ系のトップに君臨していた新日本プロレスの来日外国人選手で、ワラスがどう足掻いてもマッチョ系「キャラじゃんけん」で敵うわけがありません。予想通り、IWGP王座決定リーグでは予選リーグ6戦全敗とジョバー(プロレス業界用語で「負け役」)を務めさせられて、スゴスゴと帰国しました。

1953年生まれのワラスは、新日本プロレス来日はまだ33歳になる年で、選手生命の長いプロレス界では、決して老け込む年齢ではありませんでした。
しかし、その後のワラスの消息は全く知りません。日本のプロレス団体からは二度とお呼びの声は掛からなかったのです。生まれ故郷のオーストリア・リンツのうらぶれた酒場で「俺は昔、柔道の山下をブン投げたことがあるんだぜ!」とか言って、「ウソツキおやじ」扱いでもされているんでしょうか?

山下から奪った一本が「幻」となってしまったように、ワラスの存在自体も「幻」のように消えてしまったのです。

 

第4回 3分間だけ強いウルトラマンの「裏投げ」ハビーリ・ビクタシェフ

 

ビクタシェフといえば、89年(平成元年)にサンボ選手として、新日本プロレスの飯塚高史と異種格闘技戦で2度対戦しており、ひょっとしたら、そちらの試合での印象を持っている方もいるかもしれません。赤いサンボ衣が印象的でした。
この試合は、もちろんプロレスの一環として行われたものなので、試合内容や結果については敢えて言及しませんが、ビクタシェフの得意技は、サンボ仕込みの強烈な「ヘソで投げる」裏投げでした。

「ヘソで投げる」とは、元々プロレスの“20世紀最強のレスラー鉄人ルー・テーズの必殺技バックドロップを掛ける時の体の反り返りの姿勢が、ヘソを突き出すようにきれいなアーチを描いたことにちなんだ形容詞です。L・テーズ以来、バックドロップの極意は「ヘソで投げる」ことと言われており、柔道界でも、「反り返りの鮮やかな裏投げ」のことを、「ヘソで投げる」裏投げと呼んでいます(おそらく一部の人ですが)。
ちなみに、「私の選ぶ」ヘソで投げる裏投げの使い手NO.1の日本人選手は、現全日本男子の斉藤仁監督です。斉藤は高校から大学にかけての若手時代は、ここぞという時にはこの技で相手を豪快に畳に沈めています。斉藤は140キロを超える巨体だった割には体が柔軟で粘り腰があったからこそ、この技が得意でした。犠牲者の中には、後に大相撲の幕内力士となった服部祐児(藤ノ川)もいました。しかし、現役後期には、おそらく軸足の右膝を痛めた影響で、この技はほとんど影を潜めてしまいました。

さて、ビクタシェフは1957年生まれで、柔道家であるとともに旧ソ連のサンボチャンピオンと紹介されていましたが、実際はサンボでは全ソ選手権3位というのが最高の記録のようです。当時新日本プロレスとしては、柔道選手はルスカ、アレンと出尽くしたので、ビクタシェフを主にサンビストとして扱いましたが、れっきとした一流の柔道選手でもあり、85年のソウル世界柔道では無差別級3位に入っています。大入道のようないかつい風貌で、もの凄い怪力なのですが、彼には致命的な欠点がありました。

最初から力ずくで攻めるので、ウルトラマンのカラータイマーが赤く点滅するかのように、3分過ぎると急にバテてヘロへロになってしまうのです。そして、1回戦より2回戦、2回戦より3回戦と勝ち上がるにつれて、疲れて動きが悪くなってしまうという尻すぼみの選手でした。

87年西ドイツ・エッセン世界柔道の準決勝、小川直也戦は非常に面白い試合でした。
小川直也はビクタシェフとは「正反対」の選手です。スタミナ抜群で、「3分過ぎてからが強い」と言われた選手でした。しかも勝ち進むにつれて尻上がりに調子を上げてくるタイプで、この試合はウルトラマン(ビクタシェフ)対ゼットン(小川)のような勝負でした。

試合は両者の特徴を絵に描いたような内容になりました。ビクタシェフはこの試合までに既にスタミナを使い果たしたかのように、最初から全く精彩がありませんでした。テレビの解説者が呆れたように「ビクタシェフはスタミナ配分を知らないですからね〜」と言っていました。そして、3分を過ぎる頃に「さあ、3分過ぎたら小川が取りに行きますよ」と言った途端に、まるで合図を出したかのように、小川が3分15秒「払い腰」で技あり、そして、その1分後「支え釣り込み足」で技ありを続けざまに奪い、「合わせ技」で一本勝ちを収めました。精魂尽き果てたビクタシェフは、その後の3位決定戦でも、むしろ格下と思われるキューバの選手に良いところなく大外刈りで完敗し、5位に終わってしまいました。

そんなビクタシェフですが、92年に第1回世界アマ相撲選手権大会に突然出場してきた時にはビックリしました。世界選手権といっても、日本を除けばアメリカやブラジルの日系人選手が相撲の経験者という程度で、その他の選手は素人ばかり。各国のレスリングや柔道の連盟に協力を仰いで寄せ集めた選手ばかりでした。ですから、レスラーあり、柔道家あり、民族格闘技選手ありで、さながら、異種格闘技戦の様相を呈していました。
相撲はもちろんそんなに甘い格闘技ではないのですが、パワーはあるがスタミナに不安のあるビクタシェフにとっては、勝負が10秒前後でついて、1分を越えることはめったにない日本の相撲は自分に非常に向いている競技だと思ったのかもしれません。

さて、重量級に出場したビクタシェフの初戦(2回戦)の相手は、セネガルのラサナ・コーリー。テレビ番組ではセネガル相撲出身と紹介されていたような記憶があるのですが、実はロス五輪の柔道無差別級の1回戦で山下泰裕に大内返しで27秒で投げられた柔道選手でした。

この取り組みは壮絶なものとなりました。素人同士ですので、スピード感のない立ち会いで組み合ったと思ったところ、ビクタシェフが土俵の中央で、「イヤー!」と大きな気合の声を発して、全くのサンボ(柔道)流の裏投げで、地球の重力に逆らうようにフワッと持ち上げたと思ったら、コーリーを後頭部から重力の法則通り、豪快に土俵に叩きつけました。

最近、大相撲の横綱・朝青龍が本場所の土俵や稽古場でプロレスのバックドロップに似た「吊り落とし」を何度かやって、「大変危険だ」と問題になったことがありました。
ただ、朝青龍はバックドロップ風に持ち上げた後に、最後は自らの体を捻って、相手の体を最低限は支えて横に落とすのですが、ビクタシェフの裏投げは、相手に対する安全面の配慮は全く感じられませんでした。型通りの「ヘソで投げる」裏投げが炸裂したのです。

ナント、哀れコーリーは脳震盪で完全に気を失ってしまいました。軍配はもちろん、ビクタシェフの勝ち!しかし……、この勝負には何故か「物言い」がつきました。テレビ観戦していた私はスローも見ましたが、どう見てもビクタシェフの勝ち。裏投げで投げる時に相手を抱き寄せた方の腕が下敷きになっているので、同体に見えないこともありませんが、コーリーの体は完全に「死に体」であり、何の抵抗力もありませんでした。

ところが、この勝負は、意外や意外!「軍配差し違え」で、コーリーの勝ち!!
最初は一瞬、危険行為による「反則」を取ったのではないかと思ったのですが、審議後の審判のマイク説明によると、やはりビクタシェフの腕が先に土についたということのようでした。審判はコーリーが意識を取り戻すまで待って、コーリーは泥酔者のようにフラフラしながら勝ち名乗りを受けました。

もっとビックリしたのは「決まり手」です。
「浴びせ倒し」でコーリーの勝ち、という信じられない場内アナウンスがあったのです。
繰り返しますが、コーリーは裏投げで「形」のように投げられただけで、「浴びせ」てもいませんし、「倒し」てもいません。一方的に無抵抗でブン投げられただけです。

この後、普通なら、大会主催者から「裏投げは危険だから使わないように」という指導があったと思うのですが、本人もこれで懲りたであろうと思いきや、ビクタシェフはこの後も、全く懲りずに「裏投げ」を使い続けました。そして、翌93年の第2回大会では重量級3位、94年の第3回大会は無差別級3位と大活躍して大会の常連選手となりました。

そして、ビクタシェフは何度か裏投げで勝利をあげています。
さて、ここで問題です!土俵の中央で相手を「裏投げ」で投げて勝った時に、決まり手は何になったでしょう!!

正解は「うっちゃり」です。うっちゃりというのは、相手に土俵際まで寄られた時に、ギリギリで踏ん張って、体を弓なりにしながら、後ろへひっくり返して投げる逆転技だとばかり思っていましたが、土俵の真ん中で自分から弓なりになって、抵抗できない相手を後ろへフッ飛ばしても「うっちゃり」なんですね!!

最後に復習です。土俵中央で相手をサンボ(柔道)流の「裏投げ」で投げて勝てば「うっちゃり」!負ければ「浴びせ倒し」!既に15年も前のことですが大変勉強になりました。

それにしても、ビクタシェフは強さと弱さが共存したボブ・サップのようなタイプで、見ている方としては、どう評価していいかわからない摩訶不思議な選手でした。

 

第5回 在日韓国籍柔道家の活躍と反骨の柔道王秋山成勲

 

戦後の韓国柔道界をリードしたのは、日本に住んで、日本の高校、大学を卒業した在日韓国籍選手でした。東京五輪中量級銅メダルの金(山本)義泰(兵庫・神港学園天理大)、ミュンヘン五輪中量級銀メダルの呉勝立(兵庫・神港学園天理大)、モントリオール五輪中量級銅メダルの朴(井上)英哲(京都・京都商業東洋大)の3人の五輪メダリストを含み、5人の世界大会メダリストが在日韓国籍選手から誕生しています。昭和30年代から50年代半ばにかけては、日本で育った韓国籍選手が非常に活躍しました。
特に関東では法政大や東洋大、関西では天理大や近畿大などの出身選手が優秀な成績を残しています。

彼らは日本で柔道を学んだので、基本に忠実な日本人的な柔道でした。彼らは非常に強く、国際大会で日本の代表選手を苦しめましたが、世界の頂点を極めることはできませんでした。日本人選手から見れば、「大変な強敵」であると同時に、「日本人的な柔道」であるということで、逆に手の内が読みやすく、比較的「対策を立てやすい」相手であったということが言われています。

金義泰は在日韓国籍選手のパイオニア的存在で、学生選手権などで活躍し、天理大主将を務めました。日本の岡野功など中量級の名選手と互角に渡り合い、東京五輪中量級銅メダル以外にも、昭和36年のパリ世界柔道では体重無差別でベスト4、昭和40年のリオ世界柔道では中量級で銅メダルを得ています。
卒業後は母校天理大学に残り、「山本」姓で長年に渡って教授、師範として奉職し、学生の信頼と尊敬を集めました。指導者として慕われ、多数の世界的な選手を育てるなど大きな業績を残しています。関西の柔道界で山本先生を知らない人はおそらくいないでしょう。

呉勝立は済州島生まれで、神戸市長田区育ち。高校時代までは日本名を名乗っていましたが、大学からは母国名を名乗り主将として活躍しました。ミュンヘン五輪では予選で日本の関根忍を破り、敗者復活戦で勝ちあがってきた関根と再度決勝戦で対戦(当時は敗者復活戦から勝ち上がれば決勝へ進めた)し、試合時間10分の内、9分30秒までは大外刈り、払い腰などで攻め、明らかに呉が優勢でした。しかし、そこで関根の体落しで横倒し(現在なら有効相当の技)となり、旗判定の結果、2−1で金メダルを逃してしまいました。
会場には大きなブーイングも起こったほどでした。表彰式では終始うつむき気味の勝者関根に対し、2位の呉は嬉しそうに手を振って観客の声援に答えて清々しい印象を残しました。その後、呉は真っ先に日本の監督、コーチのところに駆けつけて「ありがとうございました」とお礼の言葉を述べました。
呉は「今日は全力を尽くしました。判定には不満はありません」と日本語でさばさばとしたコメントを残し、読売新聞には「美しい敗者、呉」という大きな見出しが踊りました。

井上英哲は東洋大では大学3年の時に全日本学生優勝大会初の決勝進出にレギュラーとして貢献し、大学4年の時にモントリオール五輪に出場しました。世界の舞台では現役後期の園田勇や藤猪省太と同世代に活躍しています。卒業後に関西に居住を移し、主に天理大で練習を重ねて、79年のパリ世界柔道でも78キロ級で3位に入っています。
現在は大阪在住で、某国立大学の柔道部の師範を務めたり、柔道の源流とも言える古流の柔術に興味を持たれたようで、「西郷派大東流合気武術」の修行を10年以上積んで、指導者として活躍しています。大東流は、現在では多数の分派を生じており、西郷派は歴史的系譜が異なるという説もあるようです。また、会津で西郷四郎に伝承されたという言い伝えがありますが、柔道との歴史的関連性や技術的類似点については本稿の主旨ではありませんので割愛させていただきます。ともかく、井上英哲は柔道を愛しつつも、「柔道のルーツへの先祖帰り」をテーマとして修行しているのでしょう。こういう形での柔道への愛情表現もあるのかと感心しました。

井上英哲を最後に、韓国代表は、韓国在住の母国人のみが世界の舞台で闘い続けました。
ソウル五輪の開催決定を契機に韓国国内の選手の実力が大幅にアップしたのです。韓国の柔道が一気に開花したのは、84年ロス五輪でした。安柄根(71キロ級)、河享柱(95キロ級)という2人のスーパースターが金メダルに輝きました。2人は技術的にも優れた名選手でしたが、最大の武器はパワーとファイティングスピリットでした。韓国の柔道スタイルが、この頃から徐々に確立してきました。85年のソウル世界選手権では、斉藤仁、須貝等、西田孝宏らが韓国選手との対戦で負傷して病院送りとなり、「ケンカ柔道」と言われる程の激しさも見せています。特に日本のエース斉藤が趙容徹の反則スレスレの脇固めで左肘を脱臼して敗れたシーンは目に焼き付いています。韓国柔道パワーはご存知の通り、88年のソウル五輪で一気に爆発しました。

韓国はこの頃から女子の強化にも大変力を入れ始め、バルセロナ五輪72キロ級金メダルの金美廷、アトランタ五輪66キロ級金メダルの゙敏仙といった素晴らしい選手が出てきました。特に金美廷はライバルの田辺陽子の世界一を阻止し続けました。実力的に田辺が金に劣っていたとは思わないのですが、紙一重の気迫の差が明暗を分けた気がします。
その後、韓国柔道は、女子は低迷期に入っていますが、男子は78キロ級から86キロ級にかけて4度世界を制覇した全己盈を筆頭に、現役の73キロ級李?熹や90キロ級の黄禧太などが日本の大きな壁となり続けています。

在日韓国人としては、2001年のミュンヘン世界柔道の重量級2階級に姜(大野)義啓(岡山・作陽天理大)が出場しましたが、それまで井上英哲以来、ナント22年間もの空白があったのです。また、姜には世界のトップを競えるほどの実績はありませんでしたので、ほとんど日本での知名度はありませんでした。

そんな時に突如旋風のように現れたのが秋山(秋)成勲でした。秋山は2001年9月、日本に26歳の時に帰化し、2003年日本代表として世界柔道に出場しています。在日韓国籍の選手が日本に帰化して世界柔道に出場したのは秋山が初めてのことです。

全日本実業個人2位のキャリアのある父・啓二さんの影響で、3歳の時に柔道を始めた秋山は、大阪の清風高校を経て近畿大学に入学しましたが、決して目立つ選手ではありませんでした。同期にはインターハイ重量級チャンピオンや中量級3位の選手がいたため、秋山は入学当初は「NO.3」扱いでした。大学では71キロ級の関西学生で3度も優勝しましたが、全日本学生は2位止まりでした。その時点では正直に言って、秋山が将来世界レベルの選手になるという予感は全くありませんでした。

秋山は大学卒業後、3年間釜山で市役所に勤務しながら柔道を続けましたが、柔道以外の部分でも色々と複雑な思いがあったようで、大変悩んだ末に日本への帰化を決心しました。
ちなみに、当時の81キロ級のレベルで言うと、日韓は甲乙つけ難かったものの、韓国のエース趙麟徹(9701世界王者、シドニー銀)に引退の噂があり、日本に帰化した方が国家代表になる難易度はやや高かったと思われます。日本には中村兼三、瀧本誠というビッグネームがひしめいていたのです。

日本企業に就職した秋山は、大変な努力をしたと思います。ウェートトレーニングで鎧のような筋肉を身にまとい、典型的なパワーファイターという印象のある秋山ですが、技術的な探究心も非常に旺盛でした。2003年の講道館杯で瀧本から技あり(合せ技一本)を奪って勝った時の変則的な小内刈り風の捨て身技は、かつて瀧本が2度も苦汁を舐めたイラン選手(サリハニ)の得意技でした。おそらく、対瀧本戦用に短期間で研究して身に付けたのだと思われます。また、基本的には左の払い腰や内股が勝負技でしたが、中量級選手としては珍しく巴投げも大変得意でしたし、細かい足技も器用にこなしていました。

2002年釜山アジア大会で優勝した時に、秋山は「柔道最高!」という、今となっては名物の決め台詞を初めて口にしました。あの台詞は、嬉しさの素直な発露であるとともに、「祖国韓国で日本代表として勝った」という戸惑いの気持ちが含まれていたと感じたのは、私だけでしょうか? 日本や韓国という国家に重きを置いた発言が誤解を受け易い立場の秋山にとっては、国家を超えた「愛する柔道」こそが自身のアイデンティティなのでしょう。

結局、運に恵まれず、大阪世界柔道優勝もアテネ五輪出場の夢も適わず、プロの格闘家となった秋山は、いつも日の丸と太極旗の縫い込まれた柔道衣を着て入場し、勝利のインタビューではいつも「柔道最高!」という雄たけびを上げ続けました。昨年末のリング上での不正的行為で無期限出場停止中の秋山ですが、反省すべきところは真摯に反省し、もしも、ファンの支持が得られるならばリングへ復帰して、日韓友好の架け橋として頑張って欲しいと思っています。

 

第6回 「日本で最も愛された」ラシュワンと「日本を最も愛した」コバセビッチ

 

古今東西を問わず、「日本で最も愛された外国人柔道家」は誰かと聞かれたら何と答えますか? やっぱり、ヘーシンクではないかという人もいるでしょうが、彼の場合は初めて日本柔道を完膚なきまでに叩きのめした黒船でしたので、本人には失礼ながら、むしろ、アンチヒーローと言わざるを得ないでしょう。

世間一般の感覚で言えば、あの84年のロサンゼルス五輪無差別級決勝で傷ついた英雄山下泰裕の痛めた右足を敢えて攻めずに「美しい敗北」を喫して、一躍、時の人となった美談のヒーロー、モハメド・ラシュワン(エジプト)が挙げられるのは間違いないと思われます。何せ、柔道に関心のない人でさえ、ラシュワンの名は知っているはずです。
美談の真相はあらゆるメディアで検証され尽くしたので、ここでのご説明は省きますが、ラシュワンがあの試合に限らず常にフェアな柔道精神で正々堂々と戦ったのは事実です。
彼は翌年ユネスコからフェアプレー賞を受賞しましたが、それは彼に対しては非常にふさわしい勲章であったと思っています。

それでは、日本の45歳以上の柔道専門家に限定して、五輪・世界柔道のメダリストの中で、「日本を最も愛した外国人柔道家」は誰かとアンケートをしたら、やはり、日本に再三来日して、厳しい鍛錬を重ねて世界を制したヘーシンク、ルスカあたりが上位に来るでしょう。

しかし「誰が一番愛したか」と言えば、青い目のサムライラドミール・コバセビッチ(ユーゴスラビア)が選ばれるものと私は信じています。何せ、彼は単なる日本武者修行のレベルではなく、れっきとした東海大学OBです。
「闘志なき者は去れ!」がモットーの東海大学柔道部で、文化も習慣も異なる東欧の多民族がひしめき合うバルカン半島から単身留学し、「1年生から入学して4年間の猛稽古に耐えて卒業した」だけでも賞賛に値します。しかも、コバセビッチの「学年」の部員は、学生の大会としては最も権威があり、最大の目標である全日本学生優勝大会(団体戦)で4連覇した時に1〜4年生でした。
コバセビッチは「全日本学生優勝大会で1年生から4年生まで不動のレギュラーとして優勝した」日本で唯一の男です。

ちなみに、フジテレビ「世界柔道2007」のメインキャスターを務める坂口憲二さんの父上世界の荒鷲坂口征二も、全日本学生優勝大会・明治大学4連覇の偉業を達成した立役者ですが、当時の層の厚かった全盛期の明大で唯一、1年生の5月の東京予選の時からレギュラーとして出場していました。しかし、なぜか1年生の時の全日本学生の試合だけは出場していません。ひょっとしたら怪我か何かの事情かもしれません。坂口憲二さんに聞く機会があれば聞いてみたいと思います。かの山下泰裕はコバセビッチの1年先輩ですが、1年生の時だけ、決勝戦で中央大に敗れ(山下自身は勝ったが)優勝を逃しています。

さて、ラシュワンとコバセビッチ、この2人の柔道家の数奇なストーリーをご紹介しましょう。コバセビッチは1954年3月生まれ、ラシュワンは1956年1月生まれ。2才違いの2人の柔道人生は、全く違う場所で、全く違う時に始まっていますが、全く偶然に共通のある日本人との出会いで始まっています。

ある日本人とは、昭和16年(1941年)5月生まれ、新潟県の片田舎、北蒲原郡(現・阿賀野市)の県立水原高校から東洋大学に進んだ山本信明。
彼の大学生活は、新入部員のセレクション試験の際に、新潟の先輩からの紹介状を持ってやってきて、いきなり、主将に「おめさん……」(「あなた」の新潟弁)と話しかけて、「おめさんとは何ごとだ!」とどやしつけられた日から始まったのです。新潟ばかりでなく、北海道や岩手、山形など東北出身者の多かった当時の東洋大学柔道部では方言はさほど苦にはならなかったでしょうが、関東の上位に位置する実力校である東洋大学の稽古はさぞや厳しかったでしょう。
山本は体こそ小さかったものの、リズム感や体捌きも良く、釣り込み腰と大内刈りのコンビネーションに磨きをかけて、全日本学生優勝大会のレギュラー選手として大活躍したということです。

そんな、入学直後には新潟弁しか話さず、英語もおそらく満足には勉強していなかった(失礼しました!)山本だったのですが、実は「海外雄飛」を夢見ており、大学を卒業すると間もなく柔道指導者としてヨーロッパに飛んだのでした。無謀ともいえる山本の渡欧でしたが、苦労を重ねながらも、実は物凄い語学センスと生活適応力があったようです。
その後、山本は欧州からアフリカへと渡り、エジプト、ガーナで長期指導を行いましたが、他のアフリカ諸国やヨーロッパ各地への巡回指導も頻繁に行いました。

1971年、山本はユーゴスラビア・ベオグラードを来訪し、柔道の指導をした際、既にレスリングのジュニアの国内王者になっていた17歳のコバセビッチ少年と出会い、惚れ惚れするような才能を感じて柔道をやるよう勧めました。

その2年後、山本はエジプト・アレクサンドリアを訪れて、やはり指導を行った時、現地のYMCAでバスケットボールをやっているという17歳のラシュワン少年と出会い、長身でガッシリとした骨太のラシュワンに素質を見出し柔道をやらないかと勧誘しました。

これが、2人が柔道を始めた切っ掛けです。
この後、2人は全く違うルートで柔道の修行にのめり込んでいきます。

ラシュワンは、エジプトに留まり、山本を師として柔道を学びました。山本もエジプトを生活の拠点に定めてダイヤモンドの原石を得たように、ラシュワンを大事に厳しく育てました。体が大きくなって実力を付けてきた頃には、何度も山本の引率で来日しました。
合宿などに参加して、最初の頃は学生や警察官、実業団の猛者には全く歯が立たず、よく悔し涙を流していたそうです。どちらかというと大器晩成タイプのラシュワンは日本ではロス五輪の前年ぐらいまでは全くの無名の存在でした。オリンピックイヤーの84年5月の講道館での恒例の春季紅白試合初段の部で12人抜いて引き分けて抜群昇段で、一挙に三段になったのが、初めて注目されたというぐらいのものでした。特に払い腰の威力は強力でした。ラシュワンは急速に力を付けて、その頃には全日本強化選手クラスとほぼ互角に戦えるまでになっていたのです。84年ロス五輪無差別級2位、85年ソウル世界柔道無差別級2位、87年エッセン世界柔道95キロ超級2位というのがラシュワンの代表的な成績です。

コバセビッチは、本場日本に渡り、2度目の来日の時に東海大学へ入学しました。実は彼は山下泰裕よりも学事年齢では4学年(実年齢で3歳)年上でしたが、紆余曲折の末に入学したため、山下の1年後輩となりました。コバセビッチが1年生の時の4年生すら大部分の人が年下になるのです。
大学体育会は縦社会ですから、当然最初は雑用も多く大変だったでしょうが、よく耐えて、すぐにレギュラーとなりました。その後の活躍は前述した通りです。日本では個人戦に出場する機会はほとんどありませんでしたが、団体戦で本人の著書によると63勝9引分無敗(著者注 実際には抜き勝負の団体戦で2敗している)と八面六臂の活躍をしています。79年モスクワ世界柔道無差別級3位、80年モスクワ五輪95キロ超級3位というのが主な記録ですが、モスクワ五輪では「ポカ負け」で優勝のチャンスを逃したのが残念でした。

山本信明は海外生活苦節20余年、手にとって教えた外国人は数千人を超え、巡回指導した国も30カ国を超えるといいます。ラシュワンを育てた功績で、エジプト国政府からは国民栄誉賞を授与されました。東洋大入学のために上京した時は新潟弁しか話さなかった田舎の少年が、「6ヶ国語」を自由に操るコスモポリタンに成長し、日本柔道に無くてはならない国際通の人物となったのです。そして80年代に紛争の続いた全柔連と学柔連の和解後、全柔連の法人化という難しい時期に、全柔連事務局長の要職に就き、職責を果しました。

「日本で最も愛された」ラシュワンは、まだ現役だった34歳(36歳で引退)の時に、11歳年下の京都出身、大阪在住の礼子さんを妻に娶り、日本ばかりか京都美人にも愛されました。現在は2男1女の子宝に恵まれています。ロス五輪当時は小さなスーパーマーケット経営者でしたが、現在は旅行会社やレストランなどの事業を幅広く行う実業家として成功を収めています。柔道ではIJF国際審判員を務めるほか、子供を対象とした柔道学校の校長をしており、エジプト柔道界の発展のために努力奮闘しています。

「日本を最も愛した」コバセビッチは、彼らしい人生を歩みました。学生時代から結婚していたサブカ夫人と共に、祖国ユーゴスラビアには留まらずに渡米し、ニューヨークの高校で約20年間、日本語と異文化交流のクラスを受け持ちました。柔道とはほとんど縁のない生活だったそうです。内戦で混乱したユーゴスラビアには戻るに戻れなかったのかもしれません。

最後に悲しいお知らせがあります。
ご存知の方もいると思いますが、コバセビッチは昨年の6月、癌のため52歳の若さで、この世を去りました。ベオグラードで行われた葬儀には、東海大学を代表して、先輩であり、友人でもある山下泰裕が弔問に出かけました。

山下の心の中には、コバセビッチ(愛称ビッチ)のこんな言葉がふとよぎったそうです。
「私は、柔道家らしく。私は、男らしく。私は、ユーゴスラビア人らしく、人間らしく生きたい。」

 

第7回 −番外編−格闘技王国「旧ソ連」のもう一枚の格闘技勢力地図

 

今回は、柔道とはちょっと離れたテーマで話を進めていきますが、柔道を含む格闘技の世界的な勢力地図について検証してみたいと思います。
「格闘技王国」という言い方がありますが、格闘技王国がどの国を指すのかは、従来より、割と共通の認識が持たれていたように思います。

まず、最初に思い浮かぶのはアメリカですが、アメリカの格闘技王国を象徴するプロボクシングで、アメリカ人が世界主要4団体のヘビー級王座から名前を消してしまいました。現在は旧ソ連が王座を独占しており、アメリカの王国には翳りが見られています。しかし、ショービジネスとしての格闘技大国であることには変わりが無く、総合格闘技UFCなども隆盛を極めています。
アマチュアでは、ボクシングの他、レスリング(フリースタイル)に伝統と実績があります。

一方の雄、旧ソ連は、プロの興行こそ存在しませんでしたが、「ステートアマ」と呼ばれる生涯年金保証に基づいた独自の国家のバックアップ体制が確立しており、実質的には自由主義諸国のプロと同様でした。そのため、柔道、サンボ、レスリング、ボクシングとほぼ全てのアマチュア格闘技のトップレベルに君臨しました。
また連邦崩壊とペレストロイカによる開放政策で、プロスポーツの概念もあっという間に定着し、今や、プロボクシングでは上記の通り世界を席巻しています。総合格闘技世界ヘビー級王者エメリヤーエンコ・ヒョードルもおり、「旧ソ連=格闘技王国」に疑問を持つ方は皆無だと思います。
アマスポーツも最初は国家の庇護が弱まり、衰退する危惧も持たれましたが、その心配は「思わぬ方法」で杞憂に終わりました。現在は15の共和国に分かれましたが、それぞれの国の選手が経済的な問題点を抱え、一部の選手は経済的保証を求めて「国籍変更」をすることによって、世界の第一線に留まっているのです。15の共和国の中でも格闘技王国と広く認識されているのはやはりロシアです。しかし後述しますが、旧ソ連の格闘技勢力地図はそんなに単純ではありません。

西ヨーロッパ圏で格闘技王国と言えば、まず真っ先に頭に浮かぶのはヘーシンクとルスカの母国オランダです。平均身長が男女とも世界一高いオランダ人は、運動神経にも恵まれています。オランダ格闘技界は何故か日本と非常に縁が深く、柔道の他に、空手やキックボクシングも日本から伝わり大変盛んで、強豪選手は枚挙に暇がありません。
K
1では14回のグランプリ中、オランダ人の王者が延べ11回も誕生しています。

総合格闘技ブームに火をつけたのは、ブラジルのグレイシー柔術でした。
前田光世の日本柔道をルーツとするこの柔術は、長年の間に、ブラジルの風土と国民性の中で、独自に変質しながら発展し、寝技を中心としたバーリトゥード(何でもあり)向けの不敗の技術体系を確立し、ブラジルを一気に格闘技王国の座に押し上げました。バネとリズムに恵まれたブラジル人はやはり身体的素質では秀でたものを持っています。

おそらく、格闘技ファンにアンケートをとったら、上記のアメリカ、旧ソ連(ロシア)、オランダ、ブラジルがほぼ異論なく格闘技王国の「4強」ということになると思います。

さて、ここまでは実は前フリでした。「国境」というのは、あくまでも人為的な境界線でしかなく、「格闘技王国」を国家で区切るのが無意味であると思うことがあります。格闘技王国を「国家」でなく「地域」で区切ってみると、全く違う世界地図が見えてくるのです。

例として、旧ソ連を「地域」で考えてみましょう。
一口にソ連といっても、柔道の過去の著名なチャンピオンを現在の国境で区切ってみると、ミュンヘン五輪軽重量級優勝のショータ・チョチョシビリはトビリシ出身ですのでグルジア、モントリオール五輪重量級金メダルのセルゲイ・ノビコフはキエフ出身ですのでウクライナが祖国となります。
ちょっと調べれば「旧ソ連の金メダリスト=大部分がロシア」、そして、「モスクワ、St.ペテルブルグなど大都市出身選手が多い」というイメージは、あっという間に無くなると思います。

ある時、プロレス関係の本を読んでいたら、「旧ソ連のレスリング選手の6割がグルジア人」という記事に出会いました。さすがに、旧ソ連の全人口の「50分の1」以下に過ぎないグルジアに全ソ連の60%のレスラーがいるというのはオーバーだと思いました……が、ひょっとしたら、この記事を書いた方は、取材の際に聞き違いをしたのか、通訳の翻訳ミスのために勘違いをしたのかなと思いました。

というのは、グルジアも属する「コーカサス地方」という区切りで考えた場合、60%はオーバーにしても、この比率が飛躍的に高まるであろうということに気付いたのです。あるいは、「コーカサス地方出身のソ連国家代表選手の比率」ということだったら、もしかしたら60%になっていたのかもしれません。コーカサスというのは、黒海とカスピ海に挟まれた地域を指し、中央を5000メートル級の山々が連なるコーカサス山脈が横断します。ちなみに「カフカス」の英語表記読みがコーカサスですが、本稿では一般になじみのある「コーカサス」で統一します。
 コーカサス地方は、日本と樺太を合わせた位の面積(44万平方メートル)に約2000万人強の人々が住んでおり、2240万平方メートルという世界最大の領土を誇った旧ソ連全土の約2%という狭い地域です。
かつて山がちな地形が陸路を寸断していたため、世界でも有数の多民族地域で、「156」もの民族があるといわれています。

コーカサス山脈を挟んで北は現在もロシア連邦共和国に編入されており、チェチェンや北オセチア等民族問題による紛争地帯を多く含みます。
南はグルジア、アゼルバイジャン、アルメニアの3つの独立した共和国となっています。

この旧ソ連内では、非常に狭いエリアに過ぎないコーカサスが、「地域」で区切った場合に旧ソ連内で最強の格闘技王国になるということが、大変顕著なデータにより証明されるのです。これは本当に驚くほどです。
本稿は柔道のコラムですが、柔道に限らずサンボ、レスリング等の選手の話も出てきます。そもそも、この地方の選手は小さい頃はチダオバなどの民族格闘技で遊び、サンボで育ち、その中のエリートが柔道やレスリングで五輪を目指したり、サンボのチャンピオンになるという構図になっているため、1つの格闘技だけしかやっていないことはむしろ稀です。サンボと柔道の両方、もしくはサンボとレスリングの両方で世界一になった選手や、民族格闘技で無敵を誇ると同時に柔道やレスリングを制した選手もザラにいます。
そもそも選手自体に格闘技の種目を分けて考えるという発想自体が希薄です。ほとんどの選手が幼少期から3つくらいの格闘技は経験していますし、どの格闘技をやっても強いのです。

まずは、ロシア連邦内の北コーカサスからご説明しましょう。
チェチェン共和国は岩手県と同じ位の面積ですが、深刻な民族問題を抱える紛争地帯であり、チェチェン人は闘争心旺盛で勇猛果敢な性格を持ち、誰もが格闘技を好みます。この国では大統領や世界的に著名な医師といったエリートが、ごく普通にレスリングやボクシング、サンボのスポーツマスターであったりします。
レスリングではアトランタ、アテネ五輪金のブワイサ、シドニー五輪金のアダムのサイティエフ兄弟が非常に有名です。
柔道ではトルコに国籍変更してシドニー五輪金のフセイン・オズカンや重量級で世界柔道メダル3個のセリム・タタログルなどがチェチェン人です。
サンボでは寝技の天才児と言われた世界王者3回のエシン・エフゲニイがいます。
テコンドーの世界チャンピオンも生み出しています。

北オセチア共和国は宮城県と同じ位の面積ですが、強い格闘家を次々と生み出しています。
柔道では重量級無冠の帝王アテネ五輪銅メダルのタメルラン・トメノフ、レスリングではアテネ五輪で金2個、ウズベキスタン、ウクライナへ国籍変更した選手も含めると金4個を得ています。
特に驚くべきは、フリースタイルの最重量級の「2強時代」を築いたダビド・ムスルベスとアルツール・タイマゾフ(ウズベキスタンへ国籍変更)がシドニー五輪でムスルベス、アテネ五輪でタイマゾフと金メダルを分け合ったことです。アテネ五輪はグレコローマンでも最重量級でハッサン・バロエフが金メダルを取っていますので、レスリングの最重量級でフリー、グレコの両王座を独占したことになります。
「宮城県」並みの面積に、僅かに65万人弱の人口の小国が、世界の重量級を完全制圧したというのは驚くべきことです。
さらには、私達に大変なじみの深い大相撲で史上初の外国出身の兄弟関取となった露鵬と白露山、アマ相撲世界無差別級王者からプロ入りした阿覧、アマ・キックボクシング世界王者からK1デビューしたルスラン・カラエフも北オセチア出身です。

ダゲスタン共和国は九州に沖縄県と山口県を合わせた程度の面積ですが、コマンドサンボの伝説の達人でプロのリングでも大活躍したヴォルグ・ハンやサンボ史上最強といわれる世界選手権5度優勝のグセイン・ハイブラエフを輩出しています。そういえば、ハンとハイブラエフの「ニヒルで冷酷そうな風貌」は非常によく似ていました。

次に南コーカサスの独立国家である3つの共和国に目を移してみます。
グルジアは北海道よりも小さい国ですが、この国については説明不要でしょう。
コーカサスの格闘技王国の中心は、このグルジアです。柔道では、特に有名な選手は、ミュンヘン五輪金のショータ・チョチョシビリとバルセロナ五輪金のダビド・ハハレイシビリの2人でしょう。ハハレイシビリはサンボ世界王者にもなっています。この国の格闘技史上最大の英雄は、レスリングで2度の五輪(ミュンヘン、モントリオール)を含め、世界6連覇のリョワン・ティディアシビリですが、彼もまたサンボ世界王者にもなっています。グルジア人の名前は最後が「シビリ」、「ゼ」、「リ」で終わることが多いので比較的見分けやすいです。ちなみに「シビリ」は「〜の子」という意味です。
「ドンクサシビリ」とか「バカウリ」とか、ちょっとかわいそうな名前の選手もいます。

最も特徴のあるのはアルメニアです。この国は移民流出の激しい国です。
テニスのアンドレ・アガシ(アメリカ)の父親は、アルメニア移民の元ボクシング選手です。
格闘技界で、アルメニアという名前を聞くことはほとんどありませんが、実はレスリングの強豪が多く、アテネ五輪ではアルメニア人がメダルを4個も獲得しました。しかし、全員が国籍変更で他国の代表でした。最も有名なのアトランタ、シドニー五輪を連覇したアルメン・ナザリアン(ブルガリア)です。
サンボにも数多くの強豪が出ています。アルメニア人の名前はほとんど最後に「アン」、「ヤン」が付きます。

さて、ここまでご説明すれば、コーカサスこそが旧ソ連の真の「格闘技王国」であることがご理解いただけるのではないかと思います。これを知って世界柔道を見ていただければ、面白さが倍増するはずです。何せ、旧ソ連の代表選手は最大限であれば、各階級に15人もいるのですから。

最後に、古今東西の兵法では、「長生きした奴が一番強い」ということがよく言われます。
長寿のエリアとして知られるコーカサスを代表するグルジアでの調査では、100歳以上のお年寄りの比率で「世界一の長寿国」日本を上回ります。
この点でもコーカサスの人々こそが真の世界最強なのです。

 

第8回 「モンゴル相撲史上最大の英雄」はアジアの柔道メダルコレクター

 

横綱・白鵬の誕生で、大相撲は朝青龍と共にモンゴル勢が東西横綱を独占しました(念のため。この原稿の執筆中、偶然、朝青龍の夏巡業休場問題が起こりました)。
朝青龍は白鵬が十両に上がってくる前から、「白鵬は将来必ず横綱になる。何故なら、白鵬の親父さんはモンゴル最強の横綱だからさ」と予言していました。

朝青龍にそう言わせた白鵬の父、ジグジドゥ・ムンフバトは「ブフ」(モンゴル相撲)で、5年連続計6度も優勝したアブラガ(モンゴル相撲の横綱)で、 68 年メキシコ五輪ではレスリングのフリースタイル 87 キロ級銀メダリスト(モンゴル初の五輪メダリスト)となった国民的英雄でした。

モンゴルには他にも、レスリングで活躍した英雄が多いです。
72
年ミュンヘン五輪のフリー100キロ級銀メダルで、75年世界チャンピオン、加えて74年のサンボ世界チャンピオンにも輝いたホルロー・バヤンムンフや、76年モントリオール五輪フリー68キロ級銀メダリストで、7475年世界チャンピオンとなったゼベック・オイドフなどがいます。

柔道では、ミュンヘン五輪軽量級では、ヴィターが2位になりながらもドーピングで失格、以来モスクワ五輪65キロ級銀のテンジン・ダムディン、同71キロ銅のラブダン・ダーバダライ(サンボの世界王者でもある)、アトランタ五輪60キロ級銅のナルマンダ、最近ではアテネ五輪60キロ級銅のカシ・ツァガンバータル、世界柔道のメダリストは、89年ベオグラード大会95キロ級銀のバルジニャム・オドボギンや同60キロ級銅のバトルガ・ダシュゴンビンがいます。98年のバンコク・アジア大会で中村兼三を破って優勝したハリウム・ボルドバータル(サンボ世界銀2個)も印象深い選手でした。

現在まで世界では「銀、銅止まり」ですが、一番金メダルに近かったのは、89年ベオグラード世界柔道のオドボギンでした。
旗判定の僅差でコバ・クルタニーゼ(旧ソ連)に敗れはしたものの、どっちが勝ってもおかしくない試合内容だったと思います。
オドボギンは85年にサンボ世界チャンピオンにもなっています。

サンボは旧ソ連の影響下にあったモンゴルでは非常に盛んで、世界チャンピオンを多数生み出しています。先に挙げた、バヤンムンフのようにレスリングとサンボの両方で世界王者になった選手もいる一方、ダーバダライやオドボギンのように柔道とサンボの兼業メダリストもいます。

その他で有名な選手はナイダンギン・ジャムスラムとジャンバルユン・ガンボルトです。
この2人を私は88年東京ワールドカップサンボ(代々木)で見たことがあるのですが、ジャムスラムはサンボ68キロ級の世界チャンピオンで柔道とレスリングも五輪代表という万能選手で、帯を引きちぎるほどの怪力を誇っていました。
ガンボルトはサンボ74キロ級世界王者で、柔道では85年ソウル世界柔道の敗者復活戦で日本の西田孝宏が怪我をしていたとはいえ、内股から押さえ込んで合わせ技で一本勝ちして5位に入賞しています。掬い投げと関節技の得意な大変バランスの良い選手でした。

日本の5倍の面積の大部分が砂漠と草原で、人口は250万人強しかいないモンゴルですが、「相撲、競馬、弓」が三大スポーツで、格闘技の英雄は国家的尊敬の対象です。
モンゴル最大のスポーツ・イベントは毎年夏に行われる国家大ナーダムです。基本的には、このナーダムの相撲チャンピオンがモンゴル格闘技界の尊敬の対象です。レスリングや柔道、サンボで活躍した上記に挙げた英雄たちもまた、元々はモンゴル相撲の強豪選手から世界へ羽ばたいて行ったのです

モンゴル建国800周年を記念して昨年制定された第1回の「チンギスハン・トロフィー世界スポーツ大賞」に全世界のスポーツ選手の中から、日本の鈴木桂治選手がアテネ五輪とカイロ世界柔道を制した功績が評価されて「第1回大賞」に選出されたことを見ても、モンゴルでの格闘家への尊敬の念がご理解いただけるものと思います。

さて、白鵬の父ジグジドゥ・ムンフバトやレスリング、柔道、サンボの英雄たちをご紹介してきましたが、それでは、過去のモンゴルの格闘家の中で最も尊敬されている英雄は一体誰になるでしょうか?
ムンフバトには「モンゴル初の五輪メダリスト」という金看板がありますので有力候補であるのは間違いありません。しかし、モンゴルでアンケートを取ったら、おそらく「この男」こそが選ばれるのではないかという稀代の英雄がいます。

その男の名は、バドマニアプジン・バットエルデン。184センチ、125キロ。
筋肉隆々のこの逞しい男の凄さをご理解いただくために、まずはモンゴル相撲での輝かしい実績をご紹介しましょう。8890年、そして、9299年国家大ナーダム優勝(11回)。90年モンゴル秘史完成750周年記念大会優勝。旧正月大会12連覇。
この男こそが、「モンゴル相撲界のアレクサンダー・カレリン(グレコローマン重量級世界12連覇のロシアの名レスラー)」であり「モンゴルの山下泰裕」なのです。

バットエルデンの格闘技歴はモンゴル相撲にとどまりません。彼はサンボ世界チャンピオンに3度も輝いているのです(85年スペイン大会、86年フランス大会の100キロ級、89年アメリカ大会の100キロ超級)。旧ソ連出身以外で3度もの優勝回数を果した選手は他に記憶がありません。
88
年東京ワールドカップ決勝では、とある日本人柔道選手と決勝で対戦しましたが、その時は僅少差で敗れました。クリス・ドールマン(オランダ=総合格闘家)のように、自称サンボ世界チャンピオンと言いながら、実際には優勝経験が無い(2位1回、3位3回)のとは違い本物の世界王者なのです(ちなみにドールマンは柔道欧州王者とも言っていますが「74年重量級2位」というのが唯一のメダルです)。

また彼は、日本のアマチュア相撲の世界選手権の常連でもありました。93年は重量級、無差別級とも準優勝。そして、94年には無差別級優勝という偉業を達成しているのです。
この時の奮闘ぶりは素晴らしかったです。準決勝で最大の難関、その年の日本のアマ横綱、明大出身の吉橋宏之を下手投げで下し、決勝ではアメリカの204センチ、290キロの巨漢、エマニュエル・ヤーブローと対戦しました。
昔からの総合格闘技ファンならご存知でしょう。同じ年の「UFC3」でキース・ハックニー(アメリカ)にTKO負けを喫した男です。
「小錦を超える体重と曙の身長を持つ男」がキャッチフレーズでしたが、「ノミの心臓」と言われたチキン・ハートの持ち主でした。しかし、ただの巨漢ならともかく、アメフト、レスリングなどアスリートとして経験豊富な彼が体力的に弱いわけではありません。この取り組みは3分近い力相撲となりました。バットエルデンは再三の下手投げでヤーブローを揺さぶりました。その度に場内から歓声とも悲鳴ともつかないざわめきが起こったのを覚えています。最後は渾身の力を込めた掬い投げでヤーブローの巨体を土俵の土に沈めたのです。

バットエルデンは優秀な柔道家でもありました。日本にも再三来日しています。
彼が現役の頃、講道学舎(古賀、吉田、瀧本が所属した中高一貫教育の柔道の私塾)の横地治男理事長(今年3月逝去)がモンゴルとの友好と青少年の育成を志し、モンゴルからの来日選手に講道学舎を寄宿舎や練習場として提供していました。そのためバットエルデンが柔道や相撲の大会に出場すると、必ず講道学舎の中高生が応援に駆けつけ、「ばっとえるで〜〜ん!!」という黄色い声援を送っていました。
サンボの世界チャンピオンというと、変則的なスタイルで、接近戦を得意とし、裏投げや肩車、隅返しのような旧ソ連的な強引な力技や関節技を繰り出すかと思いきや、意外にも寝技はそれ程得意ではなく、十字固めをやったのを見た記憶はありません。立ち技中心のオーソドックスな柔道で、彼の特徴はやはり、力の強さと足腰のよさ、トータルバランスに優れた選手という印象で、得意技は豪快な掬い投げでした。一方、スピードや技の切れ味はさほどでもなかったと記憶しています。

さて、バットエルデンの柔道での実績ですが、モンゴル相撲やサンボ、日本のアマ相撲におけるような華やかなキャリアは見当たらず、地味〜に中堅クラスでそこそこ活躍していたという感じでしょうか。
バットエルデンの柔道でのキャッチフレーズを私なりに考えてみました。名付けてアジアの「いまいち」男です。この名前は彼の経歴が物語ります。

アジア大会=銀メダル1個、銅メダル3個
アジア選手権=銀メダル2個、銅メダル2個
東アジア大会=銅メダル2個
「アジアの柔道大会」=計メダル10個、金メダルなし

彼こそが、正真正銘のアジアの「いまいち」男ではないでしょうか。アジアの名の付く大会で10個ものメダルを取ることは驚異的ではありますが、金メダルが無いというのも不思議な記録です。アジアを超える世界的な大会での実績はそれほどないのです。
2000
年シドニー五輪100キロ超級に出場していますが、初戦の2回戦で潘松(中国)に一本負け。あくまでも「アジア止まり」の選手でした。

最後に、そんなバットエルデンの柔道の輝ける勝利を一つご紹介しましょう。
彼は96年ドイツ国際大会1回戦で、我らが篠原信一選手(世界柔道2007コメンテーター)に掬い投げ一本で勝っているのです。ツボにはまれば、爆発的なパワーを発揮する選手であったのは間違いありません。

そうだ!「いまいち」な男が我らが篠原に勝てるはずがない!
最後に「モンゴルの英雄」バットエルデンに深々とこうべを垂れてお詫びをして、この原稿を締めくくります。

 

第9回 ベルグマンス、高鳳連から谷亮子の時代まで〜女子柔道「私的」25年史

 

アテネ五輪の女子柔道をずっと見ていて思ったことなのですが、近年「女子柔道」って、物凄く面白くなったなあと感じました。金メダル5個、銀メダル1個という結果はもちろんながら、日本人選手がしっかり組んで掛け切る「一本」を目指す柔道をやっていたことが大変印象に残りました。これはもちろん、吉村和郎監督(現強化委員長)を中心とした指導者と選手本人の不断の努力が実ったものと思っています。

女子柔道は、第1回世界女子選手権が開催された1980年以降、随分と変わってきているなあと思っています。女子柔道の競技はヨーロッパを中心に発展してきた経緯があるため、初期の頃はほぼ欧州勢の独壇場でした。
日本では女子柔道は形と護身を重視して行われ、試合は禁止されてきた歴史があるため、競技化に関しては随分乗り遅れてしまった感があります(その中ではリオ世界柔道の解説をお願いしている山口香さんは日本選手の中では際立った活躍を見せました)。

ですから、初期の女子柔道は、「ヨーロッパ的な柔道観」が支配的であったような印象があります。日本は別ですが、一本を目指す柔道というよりも、ポイント狙いの柔道が主流だったと思います。
また、女性は一般的に男性より筋力が劣る反面、柔軟性に優れていますので、男性のような「スパッ!」と決まる切れ味鋭い投げ技というよりも、もつれ合って「グニャッ!」と潰れるような倒れ方をすることが多かったので、審判も技の効用を判断するのが非常に難しかったと思います。当時は、「女子の試合の審判の方が男子の審判よりずっと難しい」と言われていました。
また、柔道の技とは呼べないような倒れ方で両者が「重ね餅」のようになって「一本」になることが随分あったため、決まり技の名称を決めるのも大変だったと思います。

そんな中でも、大変きれいな柔道をする選手ももちろんいました。
世界選手権で無差別級4連覇の女王イングリット・ベルグマンス(ベルギー)です。彼女はポイント狙いではなく、しっかりと技を掛け切る正攻法の柔道をやっていました。モデルを兼業していた程の美貌のスラッとした180センチの長身で、本来は72キロ「以下」級の選手でした。
ちなみに彼女の名前は、英語読みにすると「イングリット・バーグマン」……。往年の美人女優と同姓同名で、畳の上に咲いた一輪の真っ赤な薔薇のような選手でした。

ただ、彼女には「不思議なジンクス」がありました。
世界選手権でもヨーロッパ選手権でも、「本来の自分の階級では負けて最終日の無差別級に勝つ」のです。
世界選手権無差別級4連覇の時も、本来の自分の階級ではその内の3回は金メダルを逃しています。2階級制覇に成功したのは1度だけでした。
最終的なキャリアでは72キロ級でも世界柔道で2回、公開競技のソウル五輪でも優勝していますので十分に実績を残していますが、本来の自分の階級で結構よく負けたという点ではマイナスの評価があったと思います。

そんなベルグマンスの無差別級5連覇を阻止する選手が、当時、力を付けつつあった中国から現れました。
87
年、初の男女同時開催となった西ドイツ(当時)のエッセン世界柔道でのことでした。女性に対して失礼な表現はできませんので、何と言い表したらいいのか大変困ってしまうのですが、とにかく彼女は圧倒的に大きい選手なのです。名前を高鳳連と言います。
テレビ中継でアナウンサーが高選手のことを「188センチ、125キロ」と紹介した時ですが、隣にいた解説者が苦笑しながら「自己申告の数字ですからね〜」と呆れたように言っていたのを思い出します。
私から見ても、身長、体重ともに相当少なめにサバを読んでいたのはおそらく間違いないと思っています。

この高鳳連ですが、動きはスローモーで、失礼ながら技らしい技はたった一つしかないのです。この技は強いて言えば「外巻き込み」としか言いようがないのですが、もしも私に命名しろと言われたら、「ローラー投げ」と名付けさせていただきます。
彼女の技は、まず自分がズドンと倒れこみながら、相手を力ずくで引き付けて、ローラーに巻き込むようにして押し潰して袈裟固めに持ち込むという単純なワンパターンしかありませんでした。しかし、並外れた巨体と怪力を持ち合わせているので、こんな技でも大概は決まってしまうという、ある意味ではとても恐ろしい技でした。

ベルグマンスと高鳳連の無差別級決勝は、さすがのベルグマンスも「大人と子供」のように見えてしまうほどの体格差がありました。ベルグマンスは持ち前のテクニックで何とか高を崩そうとしますが、足技を出しても微動さえしない感じでした。高は投げ切ることはできないものの、何度も外巻き込みを繰り返して有効を奪い、結局優勢勝ちを収めました。
これほど体格差を無常に感じたことは、そうはありませんでした。

高鳳連は87年エッセン世界柔道の無差別級優勝をはさんで、72キロ超級では3連覇を達成し「世界最強の女王」の座に君臨しました。
この高選手を88年ソウル五輪の大舞台で攻略することに成功した選手がいました。
72
キロ超級決勝で、オランダのアンジェリック・セリーゼは高が外巻き込みを掛けてくる瞬間に合わせて、両手の組み手を切ってきました。そうすると高は「ローラー投げ」の勢いの慣性で、ゴロンとローラーのように転がってしまうのです。高は「自爆」して背中を畳に付いたように見えるので印象が悪く、それが何度か繰り返されてセリーゼに判定勝ちを奪われてしまいました。

私の女子柔道創世記の外国人選手の思い出は、このベルグマンスと高鳳連、そして軽量級では田村(谷)亮子の「最初のライバル」(1勝1敗)だった世界柔道4回優勝のカレン・ブリッグス(イギリス)に尽きます。この3人は初期の福岡国際女子柔道に何度も来日しているので、余計印象が深いです。

さて、女子柔道は92年のバルセロナ五輪から遂に念願の正式種目になりましたが、この頃には日本女子も世界で戦える力を十分に付けて、7階級中メダル5個と大健闘しましたが金メダルには手が届きませんでした。
この頃の世界の趨勢は、相変わらずポイント柔道が全盛でした。しかも、組み手を徹底的に嫌って組み合わず、小手先の技でポイントを狙ったり、掛け逃げギリギリで戦略的に戦う選手が多く、私見ではありますが、この頃は女子柔道の魅力があまり伝わってきませんでした。
特に日本人選手を決勝で破って優勝した3階級の金メダリスト、48キロ級のセシル・ノバック(フランス)、52キロ級のアルムデナ・ムニョス(スペイン)、72キロ級の金美廷(韓国)の試合ぶりにはちょっと残念な思いを持ちました。実力の裏付けの十分にあるノバックと金美廷はともかく、ムニョス選手は、彼女には申し訳ない言い方ですが、とにかく、小手先だけの技を出して、あとは組み合わずに逃げているだけの選手でした。地元の地の利を生かして勝ったラッキーチャンピオンだったと今でも思っています。バルセロナ五輪で「一本を目指す柔道」で優勝したのは、72キロ超級の荘暁岩(中国)だけだったように思います。荘は重量級にしては小柄でしたが、「作って、崩して、掛け切る」柔道が印象的で、今日の中国女子の重量級王国を築いたパイオニアだったと思っています。

バルセロナ五輪の翌年、93年のカナダ・ハミルトン世界柔道から田村(谷)亮子選手の「世界柔道6連覇」がスタートし、この頃から日本女子全体の実力が年々向上してきるのが手に取るように見えてきました。
そして、日本女子が「世界を超えた」と実感したのは、99年イギリス・バーミンガムの世界柔道の時でした。4個の金メダルを獲得した日本は、一本を目指す柔道の礎をこの大会で確立したと思っています。この大活躍が翌年シドニー五輪の田村(谷)の金メダルの快挙の原動力となったと思います。私が女子柔道を本当に好きになったのは、正直に言いますとこの99年バーミンガム大会からでした。

その後、2003年大阪世界柔道から女子の試合時間が5分(ゴールデンスコア方式)に改正されました。
女子柔道は初期の頃から試合時間がずっと4分でした。男子は5分でしたので、何故女子の試合時間だけが4分に決まったのかはわかりません。柔道は「3分を過ぎてからが勝負」という展開になることが多いので、男子との「1分の差」はとてつもなく大きかったと思います。
女子の試合に90年代半ばまで「小手先のポイント狙い」と「偽装的な攻撃(掛け逃げ)」が多く見られた理由は、この1分の差にも原因があったと思います。4分間だと先にポイントを取れれば、最後まで逃げ切れてしまうと思うのでしょう。そういった意味で、この年から女子柔道の試合時間が男子と同じ5分に改正されたのは大変よかったと思います。少なくとも、日本選手にとっては逃げる相手を捕まえる時間が延びたと私は解釈しています。
ゴールデンスコア方式には、日本は「一本を目指すという柔道の本質に反する」という理由で当初は導入を反対していましたが、従来は審判がどちらに旗を上げていいか全くわからないような試合内容であっても無理矢理決着を付けていたことを思えば、スポーツの原則的にはフェアになったという印象を持ちました。

そして04年、ご存知の通り日本はアテネ五輪で遂に神話を築きます。
谷、谷本、上野、阿武、塚田のゴールドラッシュに私は何度歓喜のガッツポーズを繰り返したかわかりません。「鬼の目にも涙」と言いますが、吉村和郎監督の美しい涙にも大変感動しました。
この時、私は女子柔道とは「なんて面白いんだ!」と心の底から実感しました。

女子柔道が面白くなった理由は、具体的なデータが証明しています。
全柔連科学研究部によると、92年バルセロナ五輪の時の日本戦を含む女子全試合中、一本で決まった比率は「44%」に過ぎませんでしたが、04年アテネ五輪では、その比率がなんと「66%」と1.5倍にも跳ね上がったのです。

日本は、その後、05年カイロ世界柔道で金1個に終わり、06年パリ・ワールドカップ団体戦でも苦杯を喫し、またも厳しい世界の洗礼を受けました。しかし、私はこの試練は絶対に乗り越えられるものだと信じています。
07
年リオデジャネイロ世界柔道、「柔道版なでしこJAPAN」の美しい一本、そして勝利の笑顔と涙を是非とも連日見たいと思っています。

地球の裏側から熱気と感動を!!
皆さんにも地球の裏側の「日蔭JAPAN」まで届くような熱い声援をお願いしたいと思います。

 

10回 この技に命を賭ける頑固な男たちのこだわりの職人芸

 

柔道界には講道館制定の「投の形」として、「手技、腰技、足技、真捨身技、横捨身技」のそれぞれ各3本計15種類の技が制定されています。しかし、この「投の形」の15の技が投げ技の全てではありません。国際柔道連盟(IJF)制定の投げ技は現時点で66種類に定められています。

それでは、一人の選手はこの66種類の技の内、一体いくつ位の技を使うのでしょうか?
「業師」と言われる選手であっても、この66種類の技の内、試合や乱取で日常的に用いている「持ち技」はせいぜい10種類位がいいところだと思います。

しかし、天才・野村忠宏選手の場合は何が得意技なのかわからないくらい、「TPO」に合わせて多彩な技を繰り出すのが強みです。本人も「最高の傑作」と自画自賛しているのが96年アトランタ五輪準決勝のナルマンダ(モンゴル)戦です。この技にはビックリしました。ナルマンダが内股を仕掛けた時、野村が内股透かしを掛け、さらに内股に変化して投げるとういう早技を一瞬の内に決めてしまったのです。
さらに、2000年シドニー五輪決勝で鄭富競(韓国)を開始早々、田村(谷)亮子の感激の金メダルの勝利者インタビューを行っている真っ最中という「タイミングの悪さ」で秒殺した「タイミングの良い」隅落しも野村らしい反射神経のなせる技でした。

一方、山下泰裕氏は著書「闘魂の柔道」(ベースボールマガジン社)の中で、「勝負技は、内股、大外刈、大内刈の3つ」と明言しています。「世界の山下」は、意外にも「勝負技」の数は比較的少なく絞り込んで修得しているということがわかります。

「近代柔道」0611月号に興味深いインタビューを発見しました。王者山下に挑み続け、対山下戦「4勝6敗1痛分」のライバル遠藤純男氏のインタビュー記事です。

遠藤氏は、「こんなことを言ったら失礼なんだけど、(山下選手は)技が切れないのも強みになっていた。大内刈りで引っ掛けてトントントンってケンケンして内股で仕留める。それが切れる技だったら相手は一瞬の透かしもできるんだけど、それを許さない。」という非常に含蓄のある印象を語っていました。

山下選手の師匠・佐藤宣践東海大監督(当時)は、「山下泰裕・斉藤仁」のライバルを比較した際のコメントで、「山下の技は日本刀、斉藤の技は青龍刀」と山下の技が「日本刀のように切れ味鋭い」技であり、斉藤の技は「有無を言わせずぶった切るような威力がある」技であるということを言っています。

ライバル遠藤氏は山下選手は「技が切れない」と言い、師匠の佐藤氏は「技が切れる」と言っており、一見矛盾しているかのようなコメントを残しているのです。
素人目の解釈で申し訳ないのですが、私は遠藤氏も佐藤氏も結局は同じことを言っているのだと思っています。

山下選手の技は「単発」で終わることなく、常に「連続」で攻撃して、相手のバランスを崩していきます。山下選手は「確率」の柔道という言われ方をすることがあります。
つまり、「格下」の相手の場合には、相手を引き出してスパッと「切れ味鋭い」内股で投げることもあります。しかし、相手が遠藤選手のような強敵の場合には、「単発」の内股を掛けた時には「内股透かし」を掛けられる確率があるということを認識していると思うのです。ですから、山下選手は最初に「探り糸」の大内刈りに浅く入って、様子を見ながら、そのまま大内刈りに深く入るのか、あるいは、遠藤選手の言うように「大内刈内股」へとケンケンしながら変化するのかのどちらが「確率が高い」かを、自らの勝負勘で「緻密に判断」して慎重に技を掛けていたのだと思うのです。

ですから、対戦相手の遠藤選手から見ると「(山下選手は)技が切れない」と見えるのだと思います。しかし、指導者の佐藤先生から見ると、その連続攻撃の「確率の高さ」と「緻密な判断力」も含めて「技が切れる」ということなんだと言っているのではないかと思うのです。

山下選手が7810月長野国体で遠藤選手を仕留めた技、そして同年11月嘉納杯でもう一人のライバル上村春樹選手を投げた技も、この「大内刈内股」の変化技である必殺「ケンケン内股」でした。遠藤選手は翌79年にも2度、大内刈り、内股から押さえ込まれて合わせ技で敗れています。

山下選手は一見「勝負技」は少ないように見えますが、柔道は「単発的な技の勝負」ではなく、「連続的な技の集合体で相手を制するバランスの勝負」であるという勝負哲学が体に染み付いているで、3つの勝負技のコンビネーションで無数のバリエーションを生み出すことが可能だったのだと思います。それに加えて山下選手は立ち技から「世界一の寝技」への連絡技がありましたので鬼に金棒でした。

私の最も印象的な山下選手の「立ち技寝技」の連絡技は、83年全日本選手権準々決勝で、諏訪剛選手の得意技「捨て身小内」を空振りさせて、山下選手が立ったままで上から送り襟絞めを一瞬で決めたシーンでした。諏訪選手は、捨て身小内を空振りして潰れたそのままの格好で、「捨て身小内の姿焼き」のようにされてしまいました。

井上康生選手は山下選手と異なり、重量級にしては体重が軽いので、素早く動きながら相手を崩して「担ぐ、跳ねる、刈る」の何でも出来る稀有な万能タイプです。
山下選手は「跳ねる、刈る」(内股、大外刈)はやりましたが、「担ぐ」(背負投げ等)だけはやりませんでした。現役晩年に「担ぎ技」として体落しを研究していましたが、実戦でそれを決めたのは、全日本選手権9連覇・最後の大会の準決勝の対正木嘉美戦で体落しから横四方固めへ連絡して勝った一戦だけでした。
重量級でこの3つを完璧に全てできるのは、世界でも井上選手だけではないかと思います。

私が一番驚いた井上選手の背負い投げは、井上選手がまだ高校3年生の時の全日本ジュニア選手権で、その年の全日本学生チャンピオン、195センチ、160キロの上口孝太選手(日大2年)に一度高い右背負いに入り、上口が防いでホッとした瞬間に2度目のやや低い右背負いを矢継ぎ早に繰り出して豪快に投げ飛ばしたシーンです。

さて、山下、野村、井上といった日本の超一流選手は、山下選手のように「技の連携のバリエーションが多い」か、野村、井上選手のように「技の数自体が多い」といったタイプに分けられると思います。

 

しかし、世界には「俺はこの技しかやらない!」という頑固者が非常にたくさんいます。
柔道選手としては不完全に見えるのですが、私はこんな「頑固者」たちが結構好きです。

まず、最初に名前を挙げたいのは100キロ超級のユーリー・リュバク(ベラルーシ)です。
この男、「君は何でこの技しかやらないんだ〜!」と言いたくなる程、「隅返し」ばかりやります。
2005
年新春1月、体重無差別で行われた嘉納杯国際大会では、4試合連続で隅返し(合わせ技を含む)一本で勝ち上がりました。まだ、高校生だった石井慧や、90キロ級ながら出場した泉浩も隅返しで放り投げられました。決勝戦ではアテネ五輪の敗戦から5ヶ月ぶりに復帰した井上康生のケンケン内股に敗れましたが、井上に大胸筋断裂という高い代償を払わせました。リュバクは去年のカイロ世界柔道でも高井洋平選手を3回戦にこの技で一回転させ銅メダルを獲得しています。100キロ超級の選手で捨身技だけで勝負する選手は大変珍しいです。
リュバクは01年のミュンヘン世界柔道までは、100キロ級の選手で、おそらく現在は110115キロと重量級としては比較的軽量の選手です。この階級の選手で腹筋の割れている選手は他にはそうはいないはずです。
最近この技は欧州ではよく見られ、軽量級や中量級には使い手はたくさんいます。

次なる選手は、もう引退しているとは思いますが、カゼム・サリハニ(イラン)が忘れられません。
99
年、00年とアジア選手権で活躍し、2大会とも「小内刈り風の変則的な捨身技」でシドニー五輪金メダリストの瀧本誠に一本勝ちをしています。特に2000年の大阪大会の時は、大会関係者を含めて、観客の誰もが見たこともない奇襲技の炸裂に場内が騒然となりました。
試合後、報道陣に囲まれたサリハニと彼のコーチは、この技について、「2000年の歴史を誇るイランレスリングの伝統的な技で、ギャバーレという名前の技である」と初めて明らかにしました。「ギャバーレ」とは「ハンモック」という意味だそうです。確かにこの技を掛けられると、相手はハンモックに揺られるようにゴロンと後ろに倒れます。サリハニは、「この技は何故か日本人と韓国人にはよく掛かるんだ」と得意満面でした。私は今でもサリハニと言えば、この技しか思い浮かびません。

最後に、87年エッセン世界柔道95キロ超級優勝のグレゴリー・ベリチェフ(旧ソ連)を挙げたいと思います。
彼は裏投げや横捨身などが大の得意技なのですが、「第4回コラム」でご紹介したハビーリ・ビクタシェフとは対照的な裏投げをやりました。
ビクタシェフは、体の反り身で投げる、ルー・テーズ流の「ヘソで投げる裏投げ」ですが、ベリチェフの裏投げは、体が固いため反り身が全くなく、ジャイアント馬場の「かわず落し」のように、「両者同体」でベタッと畳に落ちてしまうのです。そのため、しょっちゅう審判の「判定トラブル」になっていました。
当時の日本の重量級の両エース、斉藤仁と正木嘉美もベリチェフ戦の判定でモメたことがあります。つまり同体で倒れるので、斉藤や正木が投げたのか、ベリチェフが裏投げで返したのかが審判にわからないのです。ベリチェフは、この裏投げを「自爆」して一本負けにされたことが何度かありましたが、懲りずにずっとこの技を使っていました。
ところで、このベリチェフ、毎年正月恒例だった正力杯国際「学生」柔道大会の常連選手でした。しかし、彼は「32歳」近くまでずっと、この大会に出ていたのです。学生の大会なのに、32歳近い選手が出てくるなんて、「ソ連の大学って、一体どうなっているんだろう?」とずっと不思議に思っていました。

リュバク、サリハニ、ベリチェフのように、「こだわりの職人芸」を持つ選手は非常に多く、こういう選手を探すのも世界柔道での楽しみです。リオデジャネイロでも是非とも「お気に入りの職人さん」を探してみたいと思います。

 

11回 プーチン大統領の「柔道観」とそれにまつわる話

 

ロシアのウラジミール・プーチン大統領は若い頃に柔道とサンボの本格的な経験があり、どちらもロシア連邦スポーツマスターの称号を有する上級の熟練者であることはつとに有名です。現在も柔道とサンボをこよなく愛しているのです。

2000年9月の訪日の際にはプーチン大統領は、講道館館長から贈られた六段の紅白帯をその場で締めることを丁重に辞した上、こう言葉を続けました。「私は柔道家ですから、六段の帯がもつ重みをよく知っています。ロシアに帰って研鑽を積み、一日も早くこの帯が締められるよう励みたいと思います」。また、山下泰裕とは初対面から7年間に10回以上も対面し、柔道について語り合い、すっかり意気投合しています。

そればかりか、今年の4月にはサンクトペテルブルグで行われた総合格闘技のイベント「ボードッグ」を観戦。柔道、サンボ出身の総合格闘技世界ヘビー級王者エメリヤーエンコ・ヒョードルの試合を観戦し、試合後には大統領主催のパーティに招待して激励しました。そして5月にはロシア連邦大統領令により、ヒョードルに「祖国に対する功労」勲章2級を授与しているのです。

そんな、柔道、サンボの熱烈な支援者プーチン大統領は、明確な「柔道観」、「サンボ観」を持っています。
柔道については、「柔道は単なるスポーツではない。柔道は哲学だ。日本人の心や考え方、そして文化である」と答えています。
サンボについては、「サンボは創造的なスポーツであり、常に新しい技術・戦術がつくられ発展するロシアの格闘技である」と答えているのです。

全く別の機会のインタビューであり、2つの格闘技を対比する意図の質問に対する回答でないにもかかわらず、
「柔道は『様式的哲学的』であり『正々堂々』と戦う武道であること」
「サンボは『創造的実践的』であり『自由奔放』に戦うスポーツであること」
を大統領は大変簡潔かつ的確に表現しています。両格闘技の本質を完璧に理解していることに、私は尊敬の念を禁じえません。

柔道とサンボの関係は、レスリングのグレコローマンスタイルとフリースタイルの関係に酷似してます。「柔道とグレコローマンスタイル」は伝統的なスタイルで、「正々堂々」と戦うことを本質とし、「サンボとフリースタイル」は革新的なスタイルで、「自由奔放」に戦うことをモットーとしています。
それが理由であるかどうかは定かではありませんが、日本では柔道からレスリングに転向する人はグレコローマンスタイルを選択する比率が高く、旧ソ連ではサンボからレスリングに転向する際にフリースタイルを選択する比率が高いというデータがあります。

日本では、大きく分けて、「高校からレスリングを始める人」と「高校卒業以降からレスリングを始める人」に分類されます。
柔道からレスリングへ転向する場合、高校からレスリングを始める人は、自動的にフリースタイルから先に習います(インターハイにはフリー種目しかない)ので、フリーの選手になることが比較的多いです。高田裕司や富山英明といった金メダリスト、重量級で2大会連続の銀メダルを獲得した太田章などはこのケースです。また、日本のレスリングはフリーの本場のアメリカから入ってきたため、戦前や戦後まもなくの時期はフリースタイルの大会しか実施されず、大部分の転向者はフリーの選手になりました。日本レスリングの父・八田一朗(早大柔道部出身)や柔道界の重鎮・小谷澄之十段(東京高師出身)、一時期、レスリング選手を兼ねてトルコ遠征もした曽根康治(明大柔道部出身、58年全日本、および世界選手権者)などがこのケースです。

しかし、昭和30年代以降、柔道出身で高校卒業後からレスリングを始めて、五輪に出場した選手は、大部分がグレコローマンスタイルを選択しています。
花原勉(東京五輪フライ級金)、市口政光(東京五輪バンタム級金)、宮原厚次(ロス五輪57キロ級金)といった五輪金メダリスト、
さらには、重岡完治(関西大柔道部)、中浦章(拓殖大柔道部)、
杉山恒治(東海高・柔道インターハイ、国体優勝)プロレスラーのサンダー杉山
長尾猛司(柔道国体成年の部優勝)、森山泰年(全国自衛隊柔道3連覇)、
三宅靖志(東海大相模高柔道部)、松本慎吾(愛媛・津島高柔道部インターハイ中量級2位)
などの柔道出身者のレスリング五輪代表選手がグレコローマン・スタイルです。

例外的にフリースタイルで活躍した柔道選手には拓殖大時代の正木照夫選手がいます。
正木は柔道と並行してレスリングを学び、フリーの全日本チャンピオンになり、ミュンヘン五輪代表は確定的でしたが、大学4年で全日本学生柔道選手権者(体重無差別)になったこともあって柔道に比重を置くようになり、「本業の柔道ではまだ全日本選手権に出ていない(71年初出場)のにレスリングで五輪を狙うわけにはいかない」と言って、レスリングでの五輪代表という道を自ら放棄しました。

柔道出身者がグレコに向いているという説について、レスリング識者の意見では「グレコローマンは習得するのに時間がかからないため遅く始めたハンデが少ない」、「グレコは投げ技が主体になるため柔道出身者に有利」ということが言われています。
しかし、この理由の根拠は希薄です。日本の選手層の厚い軽量級やせいぜい中量級くらいまでは除いて、層の薄い重量級では多少遅く始めたとしても国内の試合に限定した場合、さほどハンデはありません。また、柔道の投げ技は、「一本背負い、大腰、腰車」など少数の技を除いて「足」を使わない技はありませんのでグレコに応用するのが難しく、グレコの主要な投げ技である「反り投げ」や「俵返し」は経験がありません。にもかかわらず、さほど大きな技術的類似点があるわけではないのに「柔道選手グレコローマン」が圧倒的に多いという特異な状況となっているのです。

一方、旧ソ連にはサンボ出身のレスリング五輪・世界王者、もしくはレスリングとサンボを兼業した五輪・世界王者が多数いますが、その中の多くがフリースタイルのレスラーです。何故かグルジア出身の選手が多く、バロワーゼ、ロミーゼ、サガラーゼ、ルバシビリ、ティディアシビリなどが該当者です。そもそも、「河津掛けや大外刈り、内掛け、タックル」が投げ技の主力武器のサンボの選手が、足を攻撃できないグレコローマンを選択する理由はほとんどありません。この傾向はモンゴルにおいても同様です。

 

「柔道とグレコローマンスタイル」の類似点は、哲学的な共通点にあります。

 

柔道は、日本においては、合戦時の白兵戦の組打ちを想定した柔術諸流派の影響を受けて、嘉納治五郎師範によって創設されたので、根本に流れる精神は「日本武士道」のものです。
嘉納師範は「柔道という広い、また深い原理によって、武士道のみならず、全ての人間に共通の道を説こうとするものである」と柔道の目的を述べています。
日本人は現在でも柔道の公式ルールに認められているにもかかわらず、変則的な組み手や双手刈りや朽木倒しのような足を取る技を邪道だと思う傾向があります。
「正しい柔道」と「正しくない柔道」を区別し、「正々堂々とした試合態度であるかないか」という規範をルールとは別に持っています。これこそが日本武士道の精神です。

一方、ローマ時代に原型が形成され、長い歴史を経て、19世紀にフランスでほぼ現在のルールが整備されたレスリングのグレコローマンスタイルは、相手の下半身を攻撃するのを潔しとしない「西洋騎士道」の精神の流れを汲みます。
ロシアの代表的なグレコローマンレスラーである重量級世界12連覇のアレクサンダー・カレリンは「グレコローマンには固有の道徳・倫理観がある。相手の苦痛を誘う動きはしない。弱い相手とは素早く決着を付け、屈辱を与えるような戦い方もしない。グレコローマンを始めた子供はまずそのことをたたきこまれる。」と、グレコローマンの根底に騎士道的なフェアプレー精神が存在していることを明言しています。

一方、「サンボとフリースタイル」の類似点を、歴史的、技術的に検証してみましょう。

歴史的には、サンボは、日本滞在5年で講道館柔道2段だったワシリー・オシェプコフが、帰国後柔道に旧ソ連的な自由闊達な技術解釈を加えて作った「フリースタイル柔道」が起源であるという説が近年発表されました。「23種類のソ連邦内の民族格闘技を統合再編したもの」として、別の創始者が作ったとする旧ソ連の公式見解は、サンボをソ連邦統合の象徴とし、国民にナショナリズムを喚起するのに都合が良いためレーニン時代に意図的に作られたものだというのです。この説の真偽については諸説ありますが、サンボが柔道の影響を受けたというのは旧ソ連においても共通認識であり、柔道の哲学や様式的な所作を取り除き、連邦内の民族格闘技やレスリングなどと融合してフリースタイル化したものがサンボであるとは言えると思います。

技術的には、サンボは、組み手ひとつとっても柔道以上に自由にジャケット類をつかんでもよく、帯を無制限につかむことが認められています。柔道では潔しとされない手で足を攻撃する技も頻繁に用いられます。まさに「ジャケットを着たフリースタイルレスリング」といって良いほどの類似点があります。

以上の理由により、
日本では「柔道グレコローマンスタイル」、旧ソ連では「サンボフリースタイル」と、転向進路がはっきりと分かれているのではないかと思っています。

「着衣格闘技」では一方の柔道は五輪種目ですが、サンボは五輪種目ではなく、その結果、東京五輪以降サンボ選手の柔道への転向・流入が続いています。その結果、サンボ的な変則柔道が盛んに行われるようになりました。
また、旧ソ連に限らず、欧州圏が中心となって、長年「ポイント制の導入」を初めとしたレスリング的な柔道を推進してきました。また、相手の反則を狙っての「掛け逃げギリギリ」の戦法や、相手につかまれにくいように、体にピッタリとした規格ギリギリの小さい柔道衣が用いられるようになりました。徐々に「ジャケットを着たフリースタイルレスリング」に近付きつつあり、体力的にヨーロッパ圏の選手よりも劣る日本人選手は不利になってきています。近年はルール変更と戦法の「いたちごっこ」の様相を呈しています。

そして、このたびのリオ世界柔道へ向けて象徴的な出来事が起こりました。「鉄板柔道衣」の出現です。今夏の欧州合宿に参加した世界柔道2007日本代表選手によると、合宿で欧州勢が極端に「硬くて持ちづらい」柔道衣を着ていたというのです。柔道衣の硬度に規則がないというルールの盲点を突いて開発されたもので、組み手に影響を与える胸、肩、脇など、あらゆる部分に細かい縫い込みが施され、ガチガチの硬さに仕上げられているというのです。組んで投げる日本柔道にとっては死活問題で、これにより組み手が一層制限され、
ますますタックルなどで体ごと持ち上げて倒すパワー柔道が主流になるものと思われます。
技の日本柔道は大ピンチに陥り、力の欧州勢有利に傾くことはほぼ確実です。

このように、プーチン大統領の「柔道は単なるスポーツではない。柔道は哲学だ。日本人の心や考え方、そして文化である」という発言とは裏腹に、国際柔道界のパワーバランスによって、創始国日本の柔道哲学は踏みにじられ、「サンボ化」、「フリースタイル化」への道をたどってきています。

世間一般には、いまだに「柔道は日本で生まれた武道なのだから日本が勝って当たり前」という意見もありますが、柔道は国際スポーツとしての飛躍的な発展と引き換えに、柔道から「JUDO」へと変質してきているのです。もちろん、この状況に日本柔道はただ手をこまねいているだけではありません。日夜対策を講じ、努力を重ね、伝統の「一本を取る柔道」を目指しています。この逆風の中で、常に金メダルを宿命付けられた日本柔道を、今後もずっと応援し続けていきたいと思っています。

 

12回 北朝鮮リ・チャンスの「炭鉱送り」を柔道的視点で考察する

 

サッカーのワールドカップ2006アジア最終予選日本VS北朝鮮の組み合わせが決まった当時から、世間では「北朝鮮は負けたら炭鉱送り」という噂が盛んに囁かれました。

日朝対決第1戦(2005年2月9日埼玉スタジアム)直前のテレビのとあるワイドショーで、日本VS北朝鮮の戦前予想を大々的に特集していました。その中で、この「北朝鮮は負けたら炭鉱送り」という話が、ある「脱北」柔道選手の告白により、過去に実際に起こった本当の話であることが、元柔道選手本人の実名での顔出しインタビュー映像を交えて報じられました。

その脱北者の名前は李昌寿(リ・チャンス)元選手。報道によると、李昌寿は90年北京アジア大会71キロ級決勝で、韓国選手に完敗を喫したため、「偉大なる将軍様」が憤慨し、帰国後に全国民に対して自己批判のスピーチをさせられた後に短期間ながら炭鉱送りとなり、過酷な強制労働をさせられたというのです。しかも鉱山に入ると、そこには他にも負けたスポーツ選手が沢山いたと語っています。李昌寿は複数の他のメディアでそれ以前にも何度か「炭鉱送り」について証言しており、それが、当時まことしやかに噂された「北朝鮮は負けたら炭鉱送り」説のニュースソースになっていたのです。

ほぼ全ての報道が李昌寿側から発せられた情報ですので、私には本当に李昌寿が「炭鉱送り」になったのかどうかの断定はできないのですが、複数のメディアが同様に報道したという事実を基に、李昌寿のコメントを肯定的に話を進めていきたいと思います。

彼は翌年強制労働を終えて、91年バルセロナ世界柔道でまた選手として復活しましたが、78キロ級1回戦で無名のキプロスの選手に敗れてしまいました。李昌寿は今度北朝鮮に帰国したら自分は一体どうなるのだろうという不安を感じたのでしょう。大会終了後に隙を見て、バルセロナから北朝鮮への帰途、ベルリンで列車を飛び降り、韓国公館に駆け込んで亡命を申し入れ脱北に成功したのです。

番組では、李昌寿の炭鉱送りを「韓国選手に敗れたため」と簡潔な理由で語っていましたが、実は私はこの話に大きな疑問を感じました。ここから先は憶測で書くのははばかれるため、慎重に事実関係に沿って話を進めていきます。

(1)             そもそも李昌寿が韓国選手に敗れたため炭鉱送りにされたという90年北京アジア大会を遡ること1年以上前から、北朝鮮の提案で北京アジア大会には「統一コリア」で参加することが申し入れられ、南北スポーツ会談で協議されていた。

(2)             北京アジア大会では、北側の話では「南側が人為的難関を作り出したため」に最終的に統一チームの結成は断念したものの、北側の提案で「南北共同応援」が実現し、大会期間中に初の「南北統一サッカー開催」が合意された。

(3)   北京アジア大会の7ヵ月後の91年4月に千葉・幕張で開催された世界卓球選手権で分断後初の南北統一チーム「コリア」が実現し、女子団体で歴史的な優勝を成し遂げた。

以上3つの事実を鑑みると、「南北スポーツ協調路線の最中」に、北朝鮮が李昌寿を「韓国選手に敗れたため」という大義名分で炭鉱送りにしたとすると言動に矛盾があるのです。

 

次に、「金メダルを逃したため」に李昌寿が炭鉱送りにされたと仮定します。その仮説を、下記の事実に基づいて検証してみましょう。

(1)北京アジア大会では北朝鮮は金メダル数の順位で第4位だったものの、1位中国183個、2位韓国54個、3位日本38個に数の上では大きく引き離されて12個に止まっており、おり、銀メダルの数も31個に過ぎず、李昌寿の銀メダルは北朝鮮の中では十分に立派な成績であった。

(2)柔道競技では北朝鮮は男子95キロ超級のファン・ジェキルが前年の世界柔道二冠王の小川直也に大番狂わせで一本勝ちし金メダルを獲得しており、その他に銅メダル3個。
8階級中メダル5個と北朝鮮男子柔道チーム全体としては十分に面目を保っている(女子は不参加)。

以上2つの事実から考えると、銀メダルを取った李昌寿が炭鉱送りにされなければならないという根拠は希薄です。第一、銀メダリストが炭鉱送りにされるなら、北朝鮮の炭鉱はアジア大会で優勝できなかったスポーツ選手だらけになってしまいます。

「韓国選手に敗れたため」でも「金メダルを逃したため」でもないとすると、李昌寿が炭鉱送りにされたことについては、「柔道的視点で考察」すると、もっと別の個人的な理由があったと考えられるのです。私は李昌寿がどうしても勝つことができなかった、ある一人の「天敵」が存在することに注目しました。

その「天敵」とは、日本の71キロ級のエース古賀稔彦選手です。
李昌寿は87年、89年世界柔道5位と北朝鮮では最強のホープでした。しかし彼は行く先々で、ことごとく古賀選手に敗れているのです。初対戦の85年ローマ世界ジュニア選手権では2回戦で横四方固めで押さえ込まれ、87年エッセン世界柔道の3位決定戦では一本背負いで宙を舞い、89年ベオグラード世界柔道では準決勝では背負い投げで一本負けと3連敗を喫しているのです。まさに「踏んだり蹴ったり」の目にあっているのです。

特に語り草となっているのは、89年世界柔道準決勝の古賀選手の背負い投げです。この技は古賀選手の数多くの背負い投げ一本勝ちの中でも、「伝説の技」と言ってよいと思います。ナント古賀選手は左手の引き手を取れないまま、右の釣り手だけで李昌寿を担いで、片手で鮮やかに投げ切ったのです。

在日出身で関西の高校、関東の柔道名門大学を卒業した指導者が北朝鮮代表を教えていたせいか、当時の北朝鮮選手は、韓国選手に比べるとどちらかというと日本的な柔道をしていました。しかし、この時の李昌寿は過去に古賀に2度も完敗していたためか、古賀の背負い投げを恐れて、徹底的に古賀に左の引き手を取らせないようにしてきました。
そもそも、古賀は右組み、李昌寿は左組みのケンカ組み手ですので、古賀選手は引き手が遠くて全く組むことができませんでした。「右の釣り手だけの背負い投げ」は、そんな中で飛び出した古賀の「奥の手中の奥の手」でした。

ちなみに、当時人気のあった漫画「柔道部物語」で作者の小林まことさんは、古賀選手の背負い投げをモデルにして、主人公の三五十五に得意技である背負い投げをさせていました。小林さんはあるシーンで「こんな技は誰も信じてくれないだろうな」と思いながら、三五の「釣り手だけの背負い投げ」での一本勝ちを描いたのですが、その後、世界柔道の大舞台で古賀が実際にこの技を使うのを見て大変感動したそうです。有り得ないだろうと小林さん自身が思っていた「漫画のシーン」が「現実の技」になったのですから。

古賀選手が片手一本の背負い投げで投げ切ったのは現役生活でこの李昌寿戦だけでした。その後も、この技を応用したよく似た技を得意技としましたが、その技は厳密に言うと別の技で「変形の釣り込み腰」でした。右の釣り手だけで技に入るところまでは同じですが、より深く体を踏み込んで、相手を腰に乗せて、左手で相手のズボンの裾をつかんで体勢をコントロールしながら、自ら前方回転して相手を投げる技で、いわゆる「丸山スペシャル」(92年バルセロナ五輪65キロ級代表の丸山顕志選手の得意技)とほぼ同じ技でした。

話を元に戻しますが、古賀選手も90年の北京アジア大会に絶対的な優勝候補として出場しており、順当なら、決勝戦で古賀対李昌寿の4度目の対決が行われることが濃厚でした。

北朝鮮のエース李昌寿には、祖国の熱い期待と声援が寄せられるとともに、「今度こそは、絶対に古賀に勝て!」という厳しい至上命令が下されていたことと思います。
しかも、初日の95キロ超級では金メダルは無理と誰もが思った197センチの巨漢選手ファン・ジェキルが、当時世界最強(89年ベオグラード世界柔道95キロ超級、無差別級2階級金メダリスト)の小川直也と準決勝で対戦し、小川の支え釣り込み足を朽木倒しで浴びせ倒して技有り、そのまま袈裟固めに押さえ込んで、大番狂わせの合わせ技で一本勝ち。決勝戦でもモンゴルの英雄、バットエルデン選手に攻め勝って、注意のポイントで優勢勝ち。殊勲の金メダルを獲得し、北朝鮮は上げ潮ムードに満ち溢れていました。
その2日後に出場するエースの李昌寿にはかつて無いほどの大きな期待がかかったことは間違いありません。

しかも、大会では想像もできなかったビッグサプライズが起こります。
「李昌寿の目の上のタンコブ」だった古賀選手は予想通りベスト4に進出してきました。古賀は準決勝で韓国の鄭勲(チョン・フン)と対戦し、小外刈りで有効に近い技があり、審判の判断ミスでポイントこそ奪えなかったものの、試合内容では終始リードし、明白な判定勝ちを収めることは確実と思われました。
しかし、ナント!!副審の旗は2本とも鄭勲に揃い、大変不可解な判定で古賀は敗れてしまったのです!
この試合は「審判負け」と当時の日本のメディアに報じられました。

さて、こうなると北朝鮮は大騒ぎです。「天敵」古賀が銅メダルに終わり、李昌寿の目の前から消えました。韓国の鄭勲も一流の選手で、世界のメダル圏内にいる選手ではありますが、李昌寿にとっては、古賀選手と比べれば、数段やり易い相手であることは間違いありません。もはや李昌寿には金メダルしか許されない状況になってしまったのです。

しかし!!決勝戦、李昌寿対鄭勲の南北対決は、思いもよらぬ結果に終わります。
李昌寿は精彩を欠き、4分に背負い投げ有効を奪われ、さらには試合時間5分の終了間際に縦四方固めで押さえ込まれ、完敗を喫してしまったのです。
リ・チャンス(李昌寿)は金メダルの「チャンス」を不本意な試合内容で失ってしまったのです。
戦前の期待が大きかっただけに、北朝鮮国民の落胆は想像を絶するものであったに違いありません。

ここまでが、アジア大会で李昌寿が金メダルを逃した顛末です。

総括すると、
(1)李昌寿は最強のホープだったが、古賀に3連敗し北朝鮮の期待を裏切り続けていた。
(2)北京アジア大会では李昌寿に「打倒古賀と金メダル獲得至上命令」が下されていた。
(3)その古賀がアジア大会では韓国選手に敗れるという千載一遇のチャンスに恵まれた。
(4)それにもかかわらず李昌寿は決勝で韓国選手に不甲斐ない試合内容で完敗を喫した。
(5)李昌寿の敗戦は祖国を落胆させ「偉大なる将軍様」が憤慨し「炭鉱送り」を命じた。

以上が私が「柔道的視点で考察」した推論です。
ここから先の結論は、李昌寿本人や北朝鮮を含む周辺の取材をしてみないことには、具体的な根拠に乏しく、断定的に記述することができません。

李昌寿の「炭鉱送り」が真実だとすると、何故、李昌寿は「炭鉱送り」になったのか?
それは読者の皆さんそれぞれににお考えいただくしかありません。

 

13回 絞め技で「落ちる」とどうなるかというコワ〜イお話

 

世界中に組み技系格闘技はたくさんありますが、柔道をルーツとするブラジリアン柔術等を除いて、「絞め技」を認めている格闘技はありません。レスリングはもちろん、柔道で禁じられている足への関節技が認められているサンボでさえも「絞め技」は認められていません。「絞め技」は本来は柔道独自の技なのです。

何故、柔道にだけ「絞め技」が認められているのかについては、日本と西洋の風土と文化の違いによるものという説があります。日本を起源とする柔道には「日本武士道」の生死観が根底にあり、西洋を起源とするレスリングやサンボには「西洋騎士道」の生死観が宿っているというのです。

日本には合戦の際に敵兵の首を取るのが最大の名誉という武士道文化があり、西洋ではギロチンや絞首刑を残酷なものとして忌み嫌うキリスト教的な風土と騎士道文化があるというのです。だから、柔道の技術を取り入れて、より制約の少ない自由闊達なルールを採用したと言われるサンボでさえ、「絞め技」だけは認めなかったというのです。
スポーツ人類学者の中には、この説を支持している人が多くいるようです。
私には、この説の真偽はわからないのですが、「さもありなん」という気はします。

現在では関節技は日本人よりも、むしろ旧ソ連を中心とする欧州勢の方がうまいという気がしますが、「絞め技の使い手」はやはり、日本人に多いような気がします。

私が見た中では、やはり山下泰裕選手の絞め技がベストでした。
世界中を震撼させたのは、81年オランダ・マーストリヒト世界柔道無差別級決勝でのボイツェフ・レシェコ(ポーランド)との一戦でした。この試合では、山下が色白なレシェコに送り襟絞めを決めると、レシェコの顔が一瞬にして真っ赤になって、白目を剥いたばかりか、舌をダランと垂らしてしまったのです。あっという間に一本勝ちを収めた山下は、何事もなかったように開始線で一礼して静かに引き上げました。
試合を観戦していた地元オランダの英雄ヘーシンクもルスカも唖然としたように見つめていたといいます。おそらく、この試合の印象が世界を駆け巡ったと思われるのですが、ブラジル柔術界では、現在でも「送り襟絞め」のことを別名「ヤマシタ(・チョーク)」と呼んでいるそうです。
山下は、オランダ世界柔道では「10試合オール一本勝ち」で95キロ超級と無差別級の2階級制覇を達成し、81年度のフランス・スポーツアカデミーが制定するグランプリ大賞(その年度の全世界・全スポーツを対象とした最優秀選手賞)に選出されています。このグランプリ受賞も、レシェコ戦の衝撃的な絞め技の印象が評価の対象となったものと思っています(私はこの時、フランスの柔道文化に対する理解の高さを実感しました。日本では84年のロス五輪金メダルを評価して「国民栄誉賞」が山下選手に授与されましたが、五輪偏重でしか選手を評価しない日本が少し恥ずかしかったです。本当に称えられるべき栄誉が81年の2階級制覇の時の完璧な試合内容にあったことに気付いたのが、日本人ではなく、フランス人であったことに一抹の寂しさを覚えました)。

もうひとつは、後日VTRで見ただけなのですが、64年東京五輪中量級準々決勝で、柔道の申し子岡野功がフランスのグロッサンを一瞬の送り襟絞めで絞め落とした試合です。
この試合では主審の日系アメリカ人は絞め技で「落ちた」選手に施す活法(蘇生術)を知らずオロオロするばかり。見かねた岡野が自分でグロッサンに活を入れて蘇生させたというオマケ付きでした。
岡野は芸術的な立ち技が有名でしたが、寝技においても天才的な冴えを見せました。特に「下から攻める絞め技」は他に並ぶ者がいないほどのスペシャル・テクニックであり、柔道の醍醐味を十分に味あわせてくれました。

近年クローズアップされた絞め技に「袖車絞め」があります。この技は、総合格闘技に転向した吉田秀彦が、02年ホイス・グレイシー戦や03年田村潔司戦に決めたことから世間では有名になった技ですが、柔道の試合ではあまり頻繁に見られる技ではありませんでした。柔道界では両選手にかなり大きな実力差がないとなかなか掛からない技と思われています。
しかし、前出の岡野功はこの袖車絞めの名手でした。また、最近ではこの技は、現在講道館で柔道教師を務めている「コムロック」こと小室宏二選手が国際試合などでよく使っていました。2000年ハンガリー国際大会で4試合オール一本で優勝した時には、その内3試合が袖車絞め一本勝ちでした。

外国人選手の中では、「三角絞め」が比較的ポピュラーな絞め技だと思われます。
この技は高専柔道の岡山・六高の名匠・金光彌一兵衛が編み出したとされる必殺技で、両足で相手の首を絞める技ですが、プロレスのヘッドシザースによく似た技です。但し、両足で首だけを絞めるのは反則で、首とどちらか片方の腕を一緒に絞めるのであればOKです。
最近の日本人選手の中では中村兼三が三角絞めの名手でした。しかし、それにも増して、手足の長い外国人には、相手の首と腕を長い足で挟み込んで、うまく三角絞めに持ち込むのが得意な選手が多いです。

私の見た選手の中では、総合格闘技に転向した、パウエル・ナツラ(ポーランド)がこの技の名手でした。ナツラは主に3つの攻撃展開を持っていて、
(1)三角絞め
(2)三角絞め腕挫ぎ十字固め
(3)三角絞め腕挫ぎ十字固め浮き固め
と三角絞めを起点とした必勝パターンが得意でした。
残念ながら、総合格闘技のリングでは、今のところこの得意技は不発に終わっています。

柔道選手ではありませんが、ブラジリアン柔術の選手で、総合格闘技のトップファイターとして活躍中のアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラは三角絞めの達人として知られています。
01
年には00年初代PRIDE王者マーク・コールマンに対して三角絞めから十字固めに移行してタップアウトし、02年には0607K1GP王者のセーム・シュルト(オランダ)を三角絞めで下しています。ゲーリー・グッドリッジやエンセン井上もこの技の餌食になっています。

さて、絞め技で「落ちる」という言葉をお聞きになったことがあるかと思いますが、落ちるとは「気を失う」という意味です。さて、読者の皆さんの中に絞めで「落ちた」経験のある方は、柔道経験者以外には、そうはいないと思います。
「落ちる」瞬間はどんな気持ちになるか御存知でしょうか?
絞め技は基本的には頚動脈を圧迫する技ですので、脳への血流が瞬間的に止まります。そうすると、ス〜〜ッと血の気が引くような気がして、立ちくらみの時のように意識が徐々に遠のいていくのがわかります。痛いとか、苦しいという感覚ではなく、文字通り、「落ちていく」という感覚です。
一方、絞め技が頚動脈ではなく、間違って気管に入ってしまうことがあります。その時はメチャメチャ苦しいです。のどぼとけを圧迫されて呼吸ができない状態を想像していただければ苦しさがおわかりいただけると思います。

さて、絞め技が決まると、「痛いとか、苦しいという感覚ではない」ということを書いてしまったので、誤解を招くといけないので一部補足します。
絞め技は使い方や事後の蘇生法を誤ると「死に至る」こともある大変危険な技なのです。
絶対にふざけて真似をしないでください。

現在ではそういうこともあまりないでしょうが、一昔前は、大学や高校で上級生が、度胸試しに後輩を寝技の練習の際にわざと絞め技だけで攻めるということがあったようです。
一日に何度も「落とされた」経験を持つ人の体験談では、「目の毛細血管が破れてウサギのように真っ赤な目になった」とか「数日間頭がボーッとしてロレツが回らなくなった」とかかなり危険な状態に陥るようです。

さて、それでも絞め技を「真似してやろう」と思っている方には、とっておきの怖い話をしたいと思っています。絞め技は、どんな名人、達人であっても絞めがきっちりと決まれば落とされてしまうというお話です。

柔道の熟練者、高段者ともなれば、自分の実力に自信を持つのは当然のことです。そこで、稽古の際に、弟子や下級者にわざと絞めさせて、そこから脱出してみせるという芸当を好んで行う先生、指導者が結構沢山います。

まず最初は、「名人」と言われ、「空気投げ」、「球車」など芸術的な技で知られ、今だ並ぶものなき名人芸を称えられる三船久蔵十段のお話です。
1935
年(昭和10年)、当時八段だった三船久蔵は、ある柔道家U氏に「あなたは、寝技が得意だが、私の研究では絞め技はすぐ解き放すことができる」と言ったそうです。負けず嫌いのU氏はしからばとばかり、早速実演に入ることになりました。
何せ、相手は何し負う三船八段ですので、U氏は渾身の力を揮い、目をつぶってウーンと一声、送り襟絞めで絞め上げたとのことです。そうすると見物席からほどなく「いけない」という声が上がり、U氏は三船八段から引き離されてしまったそうです。そこで三船八段はと見ると、完全に落ちているので、U氏は大変ビックリしたということでした。

次に「鬼の柔道」と言われ、戦前から戦後にかけて13年間不敗を誇り、今だ史上最強との呼び声もある実戦的柔道家・木村政彦のお話です。
1942
44年頃と思われますが、戦時中、週1回指導をしていた福岡の旧制中学でのエピソードです。ある日の午後、誘われるままに三升のお酒を飲んでしまい、木村は夕方5時からの練習にあわてて急いだそうです。木村はよせばいいのに、「今日は絞め技の中でも送り襟絞めを指導するからよく見ているように」と大声をあげて、生徒に自分を絞めさせたそうです。木村は何だかだんだん気分が良くなってきたといいます。酒の酔いが回って、木村は完全に絞め落とされてしまったのです。活の入れ方も知らない生徒たちはあわてふためくばかりで、そのドタバタ走り回る音で幸いにも木村は意識を取り戻したそうです。

以上、三船久蔵、木村政彦といった柔道史上に燦然と輝く達人であっても、油断をすれば「猿も木から落ちる」、「弘法も筆の誤り」の例え通り失態を晒すことがあるという戒めです。また、絞め技はきちんと決まってしまえば、最上級者でも逃れることができないということを証明する話です。

ういえば、「五輪、世界柔道、全日本選手権」の三冠を制した名選手、先に挙げた岡野功選手は昭和44年東京選手権(全日本東京予選)決勝で篠巻政利選手に小内刈りを透かされ、篠巻選手に立ったまま上から送り襟絞めを掛けられて絞め落とされています。
同じく三冠王に輝く上村春樹・現全柔連専務理事は、昭和44年明治大学1年の時、いきなり中堅クラスの大学の選手に、絞め落とされるという大変ほろ苦い大学デビュー戦を味わっています。
かの無敵の山下泰裕選手も昭和49年に東海大相模高校に転校してまもない時期には、「マムシの宣ちゃん」と言われた寝技の達人で同年の全日本チャンピオンであった東海大の佐藤宣践先生との寝技の稽古では軽くあしらわれています(佐藤宣践は三角絞めなどの絞め技のみならず寝技全般の名人でした)。
このように、著名な柔道家であっても、誰もが試合や稽古で多かれ少なかれ絞め技の洗礼を受けています。

最後に恐ろしい話をひとつ。戦後、柔道はヨーロッパに広く普及し、1951年(昭和26年)国際柔道連盟(IJF)が結成され、その翌年には柔道の宗主国・日本がIJFに加盟し、昭和20年代後半から第1次柔道ブームがピークに達しました。その頃の欧州は、まだ柔道教師の絶対数が不足しており、日本から派遣された指導者など一部の熟練者を除けば、ずいぶんいかがわしい「にわか指導者」も多数いました。この悲劇はそんな時代背景に起こりました。

1954年(昭和29年)、パリの自称柔道教師、ベトナム人のトラン・トレン・ユアンは、自分の強さを誇示しようとして、自分に絞め技をかけるように弟子に命じ、その絞め技から抜けられずに落ちてしまいました。その場に活の入れ方をわかる者もおらず、そのまま彼は絶命してしまうという事故が起こったのです。
この人物はフランス柔道連盟には入っておらず、実際は有段者でもなかったのですが、呆れることに、自称「七段」を名乗って、モグリで指導をしていたそうです。

このように、絞め技は一歩間違えば「死に至る」大変危険な技ですので、きちんとした指導者や熟練者の監視がない場所では、できれば行わないようにしたいものです。

もしも、旧態依然としたシゴキ体質を持つ高校や大学が存在し、現在も「後輩や下級者にわざと集中的に絞め技を掛けて落とす」という悪習が続いているということがあるのでしたら、ぜひとも止めていただきたいと思います。

絞め技にかかわらず、柔道の教育現場でイジメやシゴキが行われたという話が、最近でも時折聞こえてきますが、そういうことは絶対に行われてはならないと私は考えます。

 

14回 柔道衣の歴史と「長袖」、「たるみ」が持つ秘密

 

柔道が始まる以前の柔術時代、柔術各流派の柔術衣はおおむね袖がありませんでした。
講道館も1882年(明治15年)現在の台東区の下谷・永昌寺で産声を上げた当初は、この柔術衣をそのまま用いていましたが、袖が無いので相手との間合いが狭くて、使える技のパターンが少なかったそうです。また、どうしても接近戦になるため、無理な姿勢からの投げ技を使うので怪我も多くなりました。

世界の格闘技を見ると、現在でもグルジアのチダオバや中国のシュワイジャオのように、袖がないか、袖が極端に短い競技が存在します。これらの競技では、柔道でいう「裏投げ」、「掬い投げ」や相撲の「内掛け」、「外掛け」、「河津掛け」のような接近戦で有効な技が多く使われており、「袖が無かった時代の柔道」の一端を髣髴とさせることができます。

講道館柔道の創始者・嘉納治五郎師範は思慮をめぐらせて、どうすれば技の数を増やして、怪我が少なく、自然な姿勢で組み合うことができるかを考えたようです。その結果、嘉納師範は、1886年(明治19年)頃に、柔術衣の袖が肘を越える長い柔道衣にし、下穿(したばき)も膝下三寸の長さにしました。

これにより、乱取りでは互いにどこを持っても自由に相手を投げられるようになり、投げ技の数は無限大に増えました。また、相手との間合いが適正に保たれるため、怪我も減り、相互に袖と襟を持った自然体の構えが生まれました。この柔道衣改革はまさに嘉納師範の慧眼と言えます。

現在では柔道衣(俗称として「柔道着」とも書かれますが正しくは「柔道衣」です)の袖の長さは、「手首から5センチ以内のところまで長さが達していること」、袖の太さは、「腕の太さに対し1015センチの遊びがあること」とIJFルールに定められています。

最近の傾向では、一般にはヨーロッパなどパワー柔道の得意な国々の選手は、「小さめな体にピタリとフィットした柔道衣」を好む傾向にあります(そういえば、サンボ衣も洋服のように袖が細長いタイプです)。「小さめ」の方が、相手につかまれにくく、なおかつ得意な接近戦に持ち込みやすいからです。日本でも、相手の組み手を切って、活路を開くタイプの選手は「小さめ」の柔道衣を好みます。「第11回コラム」でご紹介した硬くて持ちづらい「鉄板柔道衣」もヨーロッパのパワー柔道の優位を保つためのルールの盲点を突いた工夫の一つです。

しかし、お互いに「小さくて、硬い柔道衣」を用いるようになったら、柔道の妙味である技術の幅が極端に制限され、「柔能く剛を制す」柔道の基本理念からは益々遠くなってしまいます。裸体格闘技であるレスリングは持つ所がなく相手と体を密着させるため、小兵選手が巨漢選手に勝つのは至難の技となり、体重差のある無差別級の対戦は成立しません。
柔道も「小さくて、硬い柔道衣」を用いることによって、タックルなどで体ごと持ち上げて倒す技が主流となる「レスリング化」が進んでいくと考えられています。
この流れは日本にとっては大変不利な趨勢にあります。
また、「見るスポーツ」としての柔道の魅力も半減してしまうことは間違いありません。

しかし、本当に「小さくて、硬い柔道衣」が世界の柔道界にとってプラスなのでしょうか?
3人の「小兵柔道家」の例を挙げて、「小さくて、硬い柔道衣」を検証してみます。
これから挙げる3人の名選手は、「ゆったり柔道衣」有利論を持論としていました。

最初にご紹介するのは、大澤慶己十段です。大澤十段は醍醐敏郎、安部一郎と並んで、現存する僅か3人の「十段」の1人で、講道館柔道の頂点に位置する柔道家です。
早稲田大学出身の大澤は168センチ、67キロの小兵でありながら、多彩な技と絶妙な対捌きで「今牛和歌丸」の異名をとりました。体重無差別の全日本選手権に6回も出場し、1952年(昭和27年)にはベスト8に進んでいます。得意の送り足払い、釣り込み腰、体落しで大型選手を苦しめた名選手でした。醍醐敏郎、松本安市といった全日本王者相手にも1勝1敗の成績を残しており、木村政彦も大澤を「苦手な選手」と明言する程でした。
大澤は、自身はゆったりとした柔道衣(当時はおおむね「ゆったり柔道衣」でした)を着て、自分は「二本持つ」「相手も二本持っている」状態で大型の選手を投げ続けたといいます。彼は「対捌き」の重要性を説き、きちんと組んで、きちんと対捌きして、素早い足運びで動き続ければ、相手の技はまともに食わないということを述べています。

次にご紹介するのは、「昭和の三四郎」岡野功選手です。
中央大学出身の岡野は170センチ、80キロの中量級でしたが、64年東京五輪、65年世界柔道の中量級優勝には飽き足らず、体重無差別の全日本選手権制覇にあくなき闘志を燃やし、遂に67年、69年と2度も全日本優勝を果たし「柔能く剛を制す」を体現した名選手です。
岡野は敢えて「ダブダブの柔道衣」を着ることを好みました。ダブダブの方が相手に持たれた際に相手の手と自分の体の間に「たるみ」と「隙間」ができるため、それを利用することによって、自由自在に技を掛けることができ、また相手の動きに応じたスピーディーな変化が可能になると述べています。岡野は、立って良し寝て良し、左右の技を使え、背負い投げと小内刈りのコンビネーションを中心とした万能選手でした。しかも、小さい選手が大きい選手を倒す際に必須の「釣り手の手首の返し」も抜群でした。
これこそが「柔能く剛を制す」の極意であることを身をもって示してくれました。

最後にご紹介するのは、「稀代の業師」須磨周司選手です。
この「名選手」は大澤、岡野と違い一般的にはあまり知られていません。そのため本稿では主に須磨選手の経歴と彼の柔道衣観を重点的に記述します。

福岡県の名門、南筑高校で64年インターハイ重量級王者となり、明治大学へ進んだ須磨は、174センチ、95キロ前後と重量クラスの選手としては大変小柄でした。
66
年大学1年で早くも全日本学生選手権軽重量級優勝。68年ポルトガル・リスボンで行われた世界学生柔道選手権で軽重量級と無差別級の2階級を制し、69年メキシコシティー世界柔道では、直接対決こそ無かったもののルスカも出場した重量級で見事優勝した経歴を持っています。豪快な高い位置から繰り出す左の背負い投げや体落し、釣り込み腰、内股、払い腰、大内刈りと技が多彩な名選手でした。大学1年秋の紅白試合で16人抜きで三段、大学2年秋は12人抜きで四段昇段と異様なほどに技の切れがありました。
現・全柔連専務理事の上村春樹選手の憧れの先輩がこの須磨選手だったそうです。

しかし、須磨は体に「爆弾」を抱えた選手でした。
持病の腰の神経痛が悪化して明大には1年遅れて入学し、最後まで腰痛に悩まされ続けました。冬場には「爆弾」の腰の神経痛が出るため追い込んだ稽古ができず、全日本選手権の予選が行われる3月初旬には万全の体調を作ることができませんでした。
そのため、これだけ強い「世界チャンピオン」が何故か全日本選手権に出場することができませんでした。結局、現役引退間際の74年に1度だけ全日本出場を果たしただけで、全日本では1勝もできずに終わりました(重量級、無差別級の世界王者で全日本選手権で未勝利に終わったのは須磨だけです。最多勝利は山下泰裕の51勝)。

残念ながら須磨は52歳の若さで直腸癌のために、3年間の闘病の末に亡くなったのですが、死の直前に「近代柔道」誌上に「近代柔道衣の弊害」という遺稿を発表しています。非常に興味深い一文ですのでご紹介します。

「現在の柔道衣は体とピッタリしすぎて、技を掛ける時や防ぐ時に、体が自由に動くだけの空間がないために、スムーズな体捌きができないでいる。(中略)いずれにしても現在、しっかり持つことのできない、投げられない柔道衣は普及している。投げ技の減少おもしろくない柔道柔道の衰退につながらなければよいがと不安を感じている。投げ技の衰退を防ぐには、30年前のゆとりのある、自由に動けるユッタリ柔道衣の復活が望まれる。」とあります。

また、柔道の教育普及の立場から、99年全柔連教育普及委員長(当時)の高橋邦郎氏は、「あんなに硬くて分厚い柔道衣にしたら、技術の発揮ができません。技術は柔道衣のたるみの利用から発揮出来るものです。分厚いたるみのない柔道衣で試合が実施されたら、日本の柔道はメダルすら取れなくなる確率が本当に高くなるでしょう。体力柔道になるからです。(中略)日本が一本取る柔道を止めてしまったら、技術の進歩はなくなりますから、日本柔道ばかりでなく(最終的には)外国でも柔道は廃れていくのではないでしょうか。」と須磨と同様の予測をしています。

現代競技柔道における小兵の柔道スタイルというと「組み手を切る」「組み際に掛ける」ということで巨漢選手に対抗するというイメージを当然のように持ちます。がっぷりと組んでしまっては、体格に劣る小兵選手は引き付けられて簡単に投げられてしまう危険があるという考え方です。

このスタイルの柔道を日本で最初に組織的に実践して成功したのは、中高一貫教育の柔道私塾である講道学舎だったのではないかと思っています。何故か、小兵選手の多かった世田谷学園高校(講道学舎塾生の進学先)が、昭和50年代後半から「小兵軍団」として旋風を巻き起こしたことを覚えている方もいるのではないかと思います。
古賀兄弟、飛松兄弟、石田、吉田、秀島、瀧本など優秀な小兵選手が次々と現われ大活躍しました。この時の世田谷の柔道は、名指導者・吉村和郎コーチの下、「絶対に組み手に妥協しない」という信念を持って、「組み手を切る」、「組み際に掛ける」ということが対巨漢戦法として大変重視されました。彼らは重量級選手をものともせず、技術的に優れた攻撃的な柔道を展開しました。吉村コーチから持田治也コーチへと引き継がれてからも世田谷柔道が現在に至るまで素晴らしい成果をあげ続けているのはご存知の通りです。

たとえばOBの古賀稔彦が90年全日本選手権で決勝に進出した時の柔道が典型的な世田谷スタイルだと思います。相手に引き手を与えないように細心の注意を払って、組み際に切れ味鋭い背負い投げ、小内刈りを繰り出す、「一撃離脱型」の対巨漢戦法です。そして古賀選手はどちらかというと体にぴったりとフィットする柔道衣を好みました。古賀選手のような戦い方が、大多数の軽量選手の手本となっています。それはそれで現在の柔道観に照らし合わせれば正論であるとは思います。

しかし、講道学舎の柔道の素晴らしさを理解した上で、敢えてそこから一歩進めて考えると、大澤、岡野、須磨のような「組んで組ませて投げる」、「作って崩して掛ける」体捌きを重視した柔道観こそが、「柔能く剛を制す」を復活させる真の「柔道ルネッサンス」なのではないかと思っています(念のため。彼ら3人も「相手に組ませない」または「相手の組み手を切る」技術を使わなかったわけではありません。岡野選手など組ませない技術もよく使いました。「組まれても対応できる」という応用力の幅が広いという意味です)。

国際的なイニシアチブが、もはや柔道の宗主国・日本に無いことは承知しています。
オリンピック種目である柔道はグローバル・スタンダードの波に飲み込まれる運命にあります。居丈高な家元意識は世界には通用しません。「鉄板柔道衣」にしても、世界がそれを認めれば受け入れざるを得ないのが、国際スポーツ社会のルールです。

だからこそ、逆に日本柔道には世界に対して「柔能く剛を制す」の理念の正しさを結果で見せつけて、世界の趨勢を柔道の原点に導く役割を果たして欲しいと切に願うのです。

現代競技柔道の現状と相反する理想論なのかもしれませんが、「柔能く剛を制す」夢を蘇えらせるためにも、「正しい柔道衣」による「正しい柔道」の復活を期待してやみません。

「稀代の業師」須磨周司の遺言を叶えるためにも……

 

15回 柔道史上に異彩を放つ「怪物」ビタリー・クズネツォフ

 

旧ソ連の「怪物」ビタリー・クズネツォフは、その実績の割には知名度のあまり高くない柔道家だと思います。しかし、彼は柔道史上において、もっと評価されるべき選手だと思っています。

クズネツォフを「怪物」と言うのには、いくつかの理由があるのですが、最初に特筆すべきは彼の活躍した「期間」です。
彼は、1960年代半ばから1980年代半ばまで、約20年余りもの間、旧ソ連の柔道、サンボの重量級トップ選手として活躍した息の長い選手です。
通常、日本人男子選手が国際試合のシニア強化選手として活躍する期間はせいぜい5年から7〜8年、長くとも10年前後というケースがほとんどです。山下泰裕選手がシニアで活躍したのは17歳から27歳の丸10年です。日本で強化選手在籍年数が最長なのはおそらく野村忠宏選手だと思うのですが、それでも123年くらいではないでしょうか。日本と比べれば、いかにクズネツォフが長寿選手なのかがわかります。

次の理由はクズネツォフの「年齢」です。彼の生年月日は色々調べたのですが不詳です。
しかし、おおよその年齢が明らかになったのは、1979年パリ世界柔道無差別級決勝で、遠藤純男選手の払い巻き込みで敗れ銀メダルに終わった時のことです。
その時、クズネツォフは「39歳」と報じられました。39歳でも驚異的な高齢なのですが、これには後日談があります。日本にサンボを紹介したことで知られる「サンボの神様」ビクトル古賀氏は、サンビスト(サンボ選手)でもあるクズネツォフとは大の親友なのですが、古賀氏は、「クズネツォフは39歳というようなことを言っているようですが、実は41歳ですよ」と証言しているのです。
古賀氏は日本人の父とロシア人の母を持ち、一方の母国語であるロシア語はもちろん堪能で、旧ソ連格闘技界の交友関係も広く、十分に信憑性のある話だと思います。

41歳」が事実だとすれば、また仮に「39歳」だったにしても、彼は柔道史上最年長の五輪・世界柔道メダリストです。それに続くのは、吉松義彦、ロベルト・バンドワール(ベルギー)とアウレリオ・ミゲール(ブラジル)の35歳、さらにステファン・トレノー(フランス)の34歳ですので、クズネツォフはダントツのトップです。

しかし「41歳」で驚いていてはいけません。私はクズネツォフは、その翌年のモスクワ五輪(95キロ超級2回戦敗退)を最後に、てっきり引退したものと思っていました。
少なくとも、柔道界ではクズネツォフの名前は聞くことがありませんでした。
ところが、彼はその後もサンビストとして活躍していたのです。そして、驚異的としか言いようがありませんが、1983年パリで行われた世界サンボ選手権100キロ以上級で優勝を飾っているのです。79年世界柔道で「41歳」だったとすると、83年の世界サンボでは、ナント「45歳」ということになります。

他の格闘技の重量級高齢チャンピオンを調べてみると、プロボクシングでは、ジョージ・フォアマン(アメリカ)が45歳で世界ヘビー級王座に返り咲き、アーチ・ムーア(アメリカ)は48歳まで世界ライトヘビー級王座に君臨しています。
アマチュアレスリングでは、旧ソ連のアルセン・メコキシビリ(ヘルシンキ五輪フリーヘビー級)やアナトリー・ロシチン(ミュンヘン五輪グレコ100キロ以上級=ジャンボ鶴田が出場した階級)が40歳を過ぎてから金メダリストに輝いています。
新興格闘技ではブランコ・シカティック(クロアチア)が38歳でK−1初代王者、ランディ・クートゥア(アメリカ)が43歳でUFCヘビー級王座に就いています。
格闘技重量級の歴史的な強豪選手の中には、他にも40歳前後のチャンピオンが何人かいますが、クズネツォフの「45歳」もそれらに比肩する偉業であると思います。

そしてクズネツォフの怪物ぶりを物語るのが彼の「実力」です。彼は柔道では「幻の世界王者」と言っても良いほどのポテンシャルを見せてくれました。人間離れした怪力の持ち主で、豪快な腕取りからの裏投げや一本背負い、強烈な腕挫ぎ十字固めが得意技でした。
彼の柔道での実績は、71年ルドウィグスハーフェン世界柔道無差別級銀メダル、72年ミュンヘン五輪無差別級銀メダル、79年パリ世界柔道無差別級銀メダルと、「シルバーメダル・コレクター」に終わってしまいました。

しかし、71年世界柔道では優勝した篠巻政利選手と1勝1敗、72年五輪では金メダリストのウィリエム・ルスカと1勝1敗と星を分けています。これには少々説明が必要です。
「第5回コラム」でも少し書いたのですが、当時はトーナメントAブロック、Bブロックの最終勝者に敗れた選手が敗者復活戦を行いました。Aブロック敗者復活戦の最終勝者がBブロック最終勝者と準決勝を行い、Bブロック敗者復活戦の最終勝者がAブロック最終勝者と準決勝を行います。その準決勝の勝者同士で決勝戦が行われるのです。つまり、1度敗れた選手であっても、自分に勝った選手がブロック最終勝者となれば敗者復活戦への出場権があり、最後まで勝ち抜けば優勝できるというルールでした(現在、敗者復活戦勝者は3位止まり)。つまり、クズネツォフは篠巻、ルスカをブロック予選で破り、再戦となった決勝戦で敗れたという訳です。彼を「幻の世界王者」という所以はそこにあります。
しかも篠巻、ルスカを破った試合は「完勝」でした。
篠巻には5回戦、一本背負いで連続的に攻撃し、技有りに近い技を奪って優勢勝ちし、ルスカには3回戦、大外刈りを裏投げに返して技有り優勢勝ちを収めています。
一方、決勝戦で篠巻、ルスカに敗れた試合は「完敗」でした。
篠巻には払い巻き込みで技有りを奪われた後、袈裟固めに抑え込まれて合わせ技一本負け、ルスカには奥襟を取ろうとした瞬間に大外刈りで転がされ横四方固めで一本負けを喫しました。

クズネツォフはこのように再戦に弱く、勝つ時と負ける時の内容差が激しい選手でした。
この「一度敗れた選手が敗者復活戦を勝ち抜けば優勝が可能」というルールは、クズネツォフの例などがあって、国際柔道連盟(IJF)内では「不合理なルールだ」という声が高まり、翌73年ローザンヌ世界柔道を最後に廃止されました。
もしも当時も現在のルールだったならクズネツォフも1度くらいは「世界一」になれたかもしれません。

「再戦に弱い」クズネツォフのジンクスはその後も尾を引きます。
79
年パリ世界柔道では最大の難関ユーゴスラビアの強豪ラドミール・コバセビッチを3回戦で横四方固めで破り決勝戦に進み、先に記した遠藤純男に敗れて2位。
捲土(けんど)重来を期した翌80年の地元モスクワ五輪では2回戦でコバセビッチに背負い投げ効果ポイントで雪辱を許してメダルなしに終わってしまいました。

クズネツォフはサンビストとしては、顕著な活躍を見せました。
71
年に旧ソ連・リガ市(現在のラトビアの首都)で行われたヨーロッパサンボ選手権(当時の実質的な世界選手権)では、決勝戦で日本の安斉悦雄選手(拓大静岡県警)を腕十字固めで破り優勝。
74
年に新設された世界サンボ選手権では75年(ベラルーシ・ミンスク)、83年(パリ)と2度金メダルに輝いています。
また、79年にモスクワ・プレ五輪を兼ねて行われた「スパルタキアード」(ソ連の国体/国外選手も出場)では柔道ではなくサンボに出場し優勝しています。
プロレスや総合格闘技では「サンボ王」と宣伝されたクリス・ドールマンもクズネツォフにはサンボで3度敗れているという説があります。
オリンピック種目である柔道を中心に活動(五輪に2度出場)していたため、サンボでは
毎年大会に出ていたわけではないようですが、ほぼ無敵を誇り、大会ではかなり高い確率で優勝しています。

そして、クズネツォフは親善試合ながら、かの山下泰裕と2度対戦した経験があります。76年9月に東海大学武道館で行われた試合は、最初はサンボルールで行われ、ナント、山下が大内刈り、内股を決めて、得点11−3で勝ち!!
続く柔道ルールでも山下が大内刈り技有りからあっさりと押さえ込んで快勝。
サンボの歴史に残る最強の世界王者クズネツォフにサンボルールでも完勝したという山下の底知れぬ強さには驚くばかりです。山下がサンボ世界王者に圧勝したという話は格闘技雑誌では今まで報じられたことのない「特ダネ」だと思います。
仮に山下がサンボ世界選手権に出場していたらと想像するとワクワクする話です。

それにしてもクズネツォフは私にとっては「記録よりも記憶に残る選手」です。
彼は決して見てくれの良い選手ではありません。顔は猪八戒のような赤ら顔で、いかにも「ウォッカ好き」のロシア人という感じの風貌でした。体はルスカのように引き締まった筋肉質という感じでもなく、肉体労働で鍛えたかのようにガッチリしてはいますが、どちらかというと筋肉の上に脂肪がのってデップリと太った感じでした。
身長は188センチ、体重は20代の頃は115キロ前後、キャリア晩年は130キロを超える偉丈夫で、体を覆う剛毛は針金のように硬く、手は熊手のように大きく、指はタラコのように太く、日本のメディアでは「シベリアの白クマ」と異名をとりました(シベリア出身であるかどうかは知りませんが)。

最後にクズネツォフの「怪物」ぶりを示す最大のエピソードをご紹介しましょう。
この話もクズネツォフの親友「サンボの神様」ビクトル古賀氏の著述によります。
軍人であるビターシク(ビタリーの愛称)は、見かけによらず、頭がよく、博学で、学究肌の静かな男であり、詩人としてもなかなかのもので、ロシア小噺の名人だそうです。

そのビターシクですが、あだ名を「スタカン・スタカーノビッチ」と言うのだそうです。
このあだ名の「スタカン」というのはロシア語で「コップ」のことです。
ただし、ロシアのコップは日本の平均的コップより一回り大きく、ビールの「小ジョッキ」ぐらいあるそうです。「スタカン・スタカーノ」とは「ジョッキを2つ重ねた」と訳され、「〜ビッチ」は白ロシア(現在のベラルーシ)で多く見られる旧ソ連の代表的「姓の語尾」の一つです。つまり意訳すると「ジョッキを2つ重ねた(サイズの)男」とでも言うのでしょうか。

ビクトル古賀氏は、サンボ、レスリングという減量の必要な体重別格闘技の専門家ですので、試合前の計量会場等で逞しい「男性」を何千というほど見たそうですが、ビターシクがダントツで「世界一」だったそうです。

ホントの話(古賀氏)ですが、21歳の時、一度結婚したビターシクは、その翌日、新妻に逃げられたそうです……
何が原因なのかは明らかにされていませんが、おおよその察しはつきます。

その後、ビターシクは1976年にとうとう2度目の結婚。子宝にも恵まれたそうです。「再戦に弱い」男は「結婚という再戦」では、見事雪辱を果たしたのでした。

現役引退後の「怪物」クズネツォフについては全く消息を聞きませんが、是非とも近況を知りたいものです。健在ならば今年「69歳」になると思われます。

ロシア男性の平均寿命は58.9歳と女性の平均寿命72.4歳よりも「13.5歳」も下回ります(2005年度統計)。先進諸国の中で、ロシア男性ほど平均寿命が低く、男女寿命格差がある国は他にありません(男女の寿命格差が10歳を超える世界の国・地域は、全部で7カ国あり、全てが旧ソ連の国々です)。

ロシア男性の平均寿命を大きく縮めているのが「ウォッカの飲み過ぎ」と言うのは定説で、「若い頃はウォッカで肝臓を痛めつけ、老いてはその肝臓に自分が痛めつけられる」というロシアン・ジョークもあるほどです。
ウォッカ好きのロシア男性は、1人当たり「年間17リットル」(子供も含んだ平均値)ものウォッカを飲むそうです。アルコール度数4050%のウォッカをそんなに飲んだら、確かに肝臓も悲鳴を上げるに違いありません。体格の人並み外れた「怪物」クズネツォフならば、その何倍飲んでいたか想像もつきません(何の根拠もないのですが、「見てくれ」で勝手にクズネツォフを「飲兵衛」と決めつけてしまいました……)。

平均寿命を10年も過ぎたクズネツォフですが、元気でいてくれればいいなと心の底から思っています……

 

16回 柔道界の内外から見たヘーシンクVSルスカ最強論争

 

古くからの柔道ファンにとっては、柔道史上最強の外国人選手といえば、「アントン・ヘーシンクVSウィリエム・ルスカ」の両オランダ人柔道家の「最強論争」が永遠のテーマとなっています

1934年4月6日生まれのアントン・ヘーシンク、198センチ、108125キロ。
1940
年8月29日生まれのウィリエム・ルスカ、190センチ、108115キロ。
年齢差は6歳。対格差はヘーシンクがやや長身ながら全盛期の体重は互いに遜色なく甲乙つけがたいというところです(体重は「公称」。世界初優勝から現役引退にかけての体重幅としました)。

 

ヘーシンクは14歳で柔道を始め、柔道以外にも10歳の頃から丸太を担いで走るトレーニングで筋力と持久力を養い、自転車、サッカー、水泳、レスリング、ウェイトトレーニングなどで体を鍛え、日本では天理大学や講道館を中心に武者修行。「私の体は頭の先からつま先まで鍛えられていないところはない」と豪語するほど強靭でしなやかな肉体を持っていました。柔道での実績は61年パリ世界選手権(体重無差別)優勝、64年東京五輪無差別級優勝、65年リオ世界柔道重量級優勝。欧州選手権では無差別級優勝10回、重量級優勝6回、段位別優勝4回の計20回も個人優勝を果たしています。

 

ルスカは「第2回コラム」にも書きましたが、海軍出身で、船員の訓練、水泳、自然や身近な器具を利用したトレーニングなどで体を鍛え、寝技の強化のためにレスリングも学びました。日本では岡野功の主宰する正気塾に住み込んで修行を重ね、警視庁、日大、明大、天理大などへの出稽古に頻繁に通い、ヘーシンクに劣らず心身を鍛えに鍛え抜きました。
柔道での実績は67年ソルトレーク世界柔道重量級優勝、71年ルドウィグスハーフェン世界柔道重量級優勝、72年ミュンヘン五輪重量級&無差別級優勝。欧州選手権では無差別級優勝2回、重量級優勝5回の計7回優勝です。

 

ルスカが柔道を始めた年齢については説明が少し長くなります。というのは説が2つに分かれているからです。11歳説と20歳説と極端に食い違っています。本人は常々20歳、または21歳で始めたと言っています。あるプロレス関係書籍のインタビューでは「高校を卒業してから海軍に4年間在籍し、21歳で韓国人の師範に付いて柔道を始めた」と答えています。また、プロレス引退後の「近代柔道」のインタビューでは「20歳の時に海軍で始めた」と答えています。だとすれば、「2021歳」が正しいと思われますが、実はそう単純には割り切れないのです。1976年にアントニオ猪木と格闘技世界一決定戦を行って以来、ルスカのプロとしての公式発言が「20歳で始めた」ことになっていましたので、その20歳発言をずっと貫き通しているだけという可能性もあるからです。

 

その根拠ですが、ルスカの欧州での師匠であった平野時男師範がルスカが11歳で柔道を始めた当時の詳細を克明に記した文献があるのです。どう見ても、平野師範がウソ偽りを言っているようには思えません。しかも、平野師範は既に故人となられていますが、上記の記事を書いた昭和46年にはまだ49歳でしたので、記憶違いということもほぼ有り得ません。私は平野師範の記述の内容から判断して、「11歳開始説」を支持します

では、何故ルスカは「20歳に始めた」と敢えて流布したのでしょうか。
ルスカが類まれな天才であるのは認めるものの、20歳というのは柔道選手のスタートとしては、あまりにも遅すぎます。
読者の皆さんにはまず最初に、これから記すことは、推測の域を出ないものであることをお許しいただきたいと思います

私はこれはルスカ本人もしくは新日本プロレスが書いたシナリオではないかと思っているのです。「プロとして」のルスカの発言は要約すると終始一貫下記の通りです。

 

(1)俺はヘーシンクよりもずっと強い。乱取りではヘーシンクを10回以上も投げたが1度も投げられたことはない。
(2)オランダでは5つの柔道団体が乱立し、主流団体(NJJB)のヘーシンクは東京五輪に派遣されたが、不当にも、反主流団体(NAJA)の俺は最終予選で全勝だったにもかかわらず、別の選手が重量級代表(ヘーシンクは無差別級)に選ばれた。
(3)ヘーシンクは意図的に俺との対戦を避け、公式戦で対戦したのは67年欧州選手権無差別級の一度だけだ。この試合は俺が攻勢に出たが、ヘーシンクが守りを固めたのでポイントを奪えず、一度足払いで倒したが判定で負けにされた(実際は「ヘーシンクが盛んに寝技に引き込もうとしたがルスカが応じず、ヘーシンクが横捨身でルスカを一度ころがしてポイント。ほとんど差はなかったもののヘーシンクが貫禄勝ち」と報道にある)。
(4)その後、俺はヘーシンクに何度も挑戦状を出したが、奴は対戦に応じない。俺は最初に猪木を倒したら、次はヘーシンクを追いかけて必ずやっつけてやる。

ルスカの発言の意図は、(1)の「俺はヘーシンクよりも強い」というプロとしてのアピールだけだと思うのですが、それをルスカが言うと、必ず下記のような突っ込みを受けることが予測されます。それは簡単に言えば、「だったら柔道時代に何でヘーシンクに勝てなかったんだ。同じ国で、ましてや6歳しか年齢は違わないんだから、戦うチャンスはいくらでもあっただろう!」という指摘です。もし、そう言われたらルスカはグーの根も出ません。

 

そこで、用意された口実が「(2)〜(4)」です。しかし、この口実も「穴だらけ」です。
「反主流団体にいたためチャンスを与えられなかった」というのは、ある意味では正しかったことはいくつかの文献で証明されていますが、「全くチャンスを与えられなかった」わけではありません。現にルスカは東京五輪の代表には選ばれませんでしたが、欧州選手権や東京五輪閉会式翌日に行われた国際親善大会、東京五輪翌年の世界選手権には出場しています。ルスカが「結果」を残せなかっただけなのです。
ルスカ本人はプロレス関連書籍掲載のインタビューで「東京五輪直後の大会で優勝した。翌年の世界選手権には出場していない」と全く事実と反することを言っていますが……
ルスカが「プロとして」自身のプロフィールを偽ろうとしていたことは明白です

64年欧州選手権団体ではオランダVSソ連の決勝戦になり、2−2からの大将戦はルスカ対ソ連のエース、アンゾル・キクナーゼとなり、キクナーゼが優勢勝ちを収めています。そればかりか、個人無差別級でもルスカはキクナーゼに敗れています。また、ルスカは東京五輪直後に行われた尼崎の国際親善大会1回戦で岡野修平(中央大大谷重工ブラジル監督)の寝技を再三逃れるなど健闘したものの最後は払い腰で投げられ、「腕力は一級品だが、技術はまだまだ」との評を受けています。65年リオ世界選手権でも2階級に出場し、重量級3回戦でキクナーゼ、無差別級1回戦でアルフレッド・ダグラス・ロジャース(カナダ)に優勢負けを喫しています。以上の通り、ヘーシンクに次ぐ強豪選手だったキクナーゼ、ロジャースには連戦連敗であったことがわかります。
この結果が示すように東京五輪前後のルスカはまだまだ未熟な選手であったことは明らかです。東京五輪オランダの重量級代表に、その時点でルスカが代表に選ばれなかったのは「不当」とは言い切れないのではないかと思いますし、仮に出場したとしても優勝は覚束無かったと思います

 「ヘーシンクが意図的に対戦を避けた」、「何度も挑戦状を出したが対戦に応じない」というのも、どう見ても「プロレス業界的な発言」です。そもそも、柔道の試合に「挑戦状」など存在するはずもありません。斉藤仁が山下泰裕に挑戦状を出したという話を聞いたことがありますか?

そこで、「20歳で柔道を始めた」という発言が重要になってくるのです。ルスカ20歳というと1960年のこととなりますので、東京五輪の行われた64年はまだ柔道を始めて4年ということになります。もしも事情通に「弱かった頃のルスカ」の話を追求されたら、「まだキャリアが浅かったので未熟だっただけだ。ヘーシンクとは選手としてのピークの時期がずれていただけで実力が劣っていたわけではない」というロジックが成立します。つまり、「(2)〜(4)」+「20歳で柔道を始めた」でルスカのプロとしての発言は完璧なものになるのです。もしも私の推測通りだとしても、プロは「自分を高く売る」のが仕事ですので、ルスカが間違っているというわけではないと思いますが。

上のように、1965年以前においては、ヘーシンクがルスカの実力を上回っていたのは疑うべくもありません。

 

1967年欧州選手権無差別級準決勝の直接対決は、ヘーシンクが東京五輪後、映画出演、65年リオ世界柔道重量級優勝、引退そしてカムバックという経緯を経て実現したもので、ヘーシンクはその時点では現役続行の動機も無く、肥満が目立ち、ベストコンディションとは程遠い状態だったと言われています。ヘーシンク33歳、ルスカ26歳の時の対戦ですが、ヘーシンクが判定ながら勝利を収め、ヘーシンクが完全に引退するまでにルスカの実力がヘーシンクを追い越すことはなかったのです。

そもそも映画に出演した時点で、ヘーシンクに現役続行の意思は希薄であったことは間違いありません。何せ、このイタリア映画「聖書の裁き」(サムソン役)の出演料は何と25万ドル(当時の邦貨で9千万円)と外電が伝えているのです。俳優として映画に出るというのは完全に「プロ活動」なので、現役にカムバックできたというのは不可解です。当時のアマチュア規定は一体どうなっていたのでしょうか。オランダ体協が依然としてヘーシンクのアマ資格を認め、IJFもそれを受け入れたというのです。彼は現役中、何度もアマチュア規定違反を犯したと言われ、ヘーシンクの東京五輪出場可否問題は、日本の国会答弁でも取り上げられました。しかし彼は、ローマ五輪のレスリングに出場しようとした際にプロと断じられ出場できなかった以外は、遂に生涯何のお咎めもありませんでした。後年のルスカも健康器具ブルワーカー(懐かしい!)の広告やプロレスのショー・イベントに出た後にミュンヘン五輪に出場しており、似たようなものではありますが……。 

 ルスカは67年に世界チャンピオンになりましたが、その時点ではヘーシンクは引退していました。しかし、当時のルスカは「まだ、さほど強くはなかった」と言われています。それを物語るのが前出の平野師範の証言です。平野は1922年生まれ。拓殖大学出身で、あの鬼の木村政彦の5歳年下の後輩にあたり、木村より小柄な166センチ、75キロながら、立って良し、寝て良し、凄まじい技の切れ味を誇った柔道史上に残る強豪です。
木村同様に戦争に全盛期を奪われた不運もありましたが、戦後、昭和27年にヨーロッパに雄飛し、超人的なエピソードを多数残しています。
特に「抜き勝負」、「掛け勝負」を得意とし、弱冠20歳の時に講道館秋季紅白試合で4段15人を抜いて16人目に引き分けて5段に即日昇段、渡欧後、ドイツ・マンハイムでは「54人掛け」(50人掛けを予定していたが4人多く相手が出てきてしまった)をわずか35分で完勝したという伝説の持ち主です。平野はこう書き記しています。
「彼(ルスカ)の立ち技は日本人の二流級、寝技は五流級と思っていた。世界選手権のちょうど10日前オランダへ行った私は、彼を相手に寝技をやり子供を扱うように抑え、そして絞めてやった」とあります。ルスカは26歳。この時、平野師範は一体何歳だったと思いますか?ナント!45歳だったのです。

蛇足ながら、平野は49歳の時にヘーシンク、ルスカに続く「オランダ第3の男」と言われた、「2メートル10センチ、150キロ」の大巨人、当時23歳のペーター・アドラー(78年欧州選手権重量級覇者)と乱取り稽古をした際の話をこう記しています。
「私が子供のようにポンポン投げるので、みんな目をみはった」。
若き日のヘーシンクも「私は簡単に投げられるだろうと思って、その先生(平野)に練習を申し込んだが一方的に投げつけられてしまった」と証言しています。
ヘーシンクが56年第1回世界柔道で3位となった時(22歳)に、「私は初めての世界選手権で3位になりましたが、日本人柔道家が50人出れば私は51番目になっていたはずだ」と語っており、この頃はおそらく平野(当時34歳)にはまだ勝てなかったはずです。

ルスカは71年重量級世界王者を経て、72年ミュンヘン五輪重量級&無差別級の二冠王となった時には、さすがに日本でも非常に高い評価を受けていました

正気塾の岡野功塾長は、ルスカが五輪前に半年間ほとんど正気塾に泊り込んで武者修行した際に直接稽古をしています。岡野は25歳で引退し、この時はまだ28歳。第一線で指導していた35歳頃までは現役並みの心技体だったそうです。岡野は3歳年上のルスカとそれは激しい稽古をしたといいます。ルスカは「私の柔道生活の中でもっとも苦しく厳しいものだった」と後に語っています。その岡野は当時の新聞紙上でルスカを評し、「技術、スピード、闘志ともにすばらしい。ただ力が強いというのではなく、日本の柔道というものがわかってきている」と最大級の賛辞を贈っています。

歯に衣着せぬストレートな発言で知られた天理大学の初代監督松本安市は、ヘーシンクの61年パリ世界柔道優勝を予言して当時の全柔連強化委員長を激怒させたことがあるのですが、ミュンヘン五輪直前、ルスカ本人に「五輪は君が勝つ」と話し、またも予言を的中させたそうです。日本人、外国人の分け隔てなく、優秀な選手には親身になって指導した熱血漢の松本は、「ヘーシンクもルスカもポカリと殴って指導した」と語るだけに、両者の柔道を知り尽くしています。おそらく、ヘーシンクVSルスカの実力を分析するのに最適な人物が、この松本氏なのですが、残念ながら故人となられています。

ライバルだった篠巻政利もルスカとの直接対決は2戦2勝だったものの、ルスカの強さは素直に認めており、後に「彼は左右が利く。体落としや大内刈りは強烈ですよ。あんな選手、今の重量級にはいませんね」と語っていました。また高校時代にベンチプレス180キロを挙げた程の怪力・西村昌樹も親友でもあるルスカのパワーにはすっかり脱帽していました。後に世界を制した遠藤純男も頭角を現した大学2年の時、ルスカの支え釣り込み足に木の葉のように投げられたそうで、ルスカが引退4年後の76年、アントニオ猪木と戦う前に警視庁で手合わせした時も激しい稽古となって関係者がストップするほどで、まだまだ強かったと語っています。

このようにルスカの柔道選手としてのピークはヘーシンクと完全にずれています。こうなると、ヘーシンクとルスカの優劣は、もはや「机上の空論」になってしまいます。

ところが、日本においては意外と、「ルスカのほうが強い」派が圧倒的に多いことに驚かされることがあります。その理由は簡単です。プロレス転向後の両者の「プロ格闘家としての評価」を「柔道家としての評価」と混同している「プロレス・格闘技寄りの論評」があまりにも多いからです。

以下は、格闘技専門誌の記事で、「昭和の外国人格闘家ベスト10」という企画で柔道部門を担当した格闘技ライターの記事です。「1位ルスカ、2位ヘーシンク、3位チョチョシビリ、4位ベリチェフ、5位ウィルヘルム、6位アレン」(何故かプロレスに転向した選手ばかり!)とあり、ルスカ1位の理由は、「ヘーシンクは柔道をスポーツと語り、ルスカは武道と断言している。ヘーシンクは柔道ジャケットマッチ等を行なったが、浄化不良の如く燃えぬ試合に終始。一方のルスカは闘志ムキ出し、柔道の奥深さを伝えた」とあります。柔道のランキングなのにプロレスのリング上で行われたことを基準にして優劣を判断しています。「プロレスおたく」上がりが多かった格闘技ライターの柔道観というのは、まあ、この程度のものなんですね。

プロレスでのヘーシンクの評価は確かに散々でした。例えば、この記事が全てを表わしています。「ヘーシンクは全くひどかった。とってつけたようなプロレス技を少しみせるだけで裸で柔道をやっていたようなものである。輪島以下であったといえるだろう」。
さらにジャイアント馬場は辛らつなことを言っています。
「柔道衣を着て押さえ込まれたら、あんなに強い男はいないが、裸になったらあんなに弱い男はいない」。馬場のプロレス哲学から推測すると、「ヘーシンクは弱い」と言いたかったのではなく、「ヘーシンクはプロレスができない」ということを比喩的に表現したのでしょうが。

それに比べて、プロレスラーとしてのルスカの評価はさほど高くはないものの、格闘家ルスカに対しては「絶賛の嵐」です。プロレス関係者に限っても、御大のアントニオ猪木や坂口征二、後年人気を博した前田日明や佐山サトルもルスカの実力には敬意を表しています。

関係者の主な声を拾うと、猪木戦の試合監視委員長で柔道新聞主幹でもあった工藤雷介(修猷館高拓殖大柔道部)「モントリオールのオリンピックに出場すれば、また金メダル2つは確実だろう」。
山本小鉄「ルスカは間違いなく世界最強の格闘家の一人だ」。
長州力「凄い、強いと思ったのは外人ならルスカ」。
藤原喜明「ルスカは強えな。本当にあいつは強えぞ。腕の力や背筋力がスゲぇな。柔道も強えけど、あいつならどんな格闘技やっても、いいところに行くだろうな」。
谷津嘉章「ルスカは力が強いですね。グイと手元に引き込まれる感じで腕がしびれた」。
新倉史祐「ルスカ選手はハイレベルな強さを持った恐ろしい男でした」。
ミスター高橋(新日本レフェリー)「私がリング上で見た男の中で、こんなに強いやつはほかにいない」。
富家孝(リングドクター)「彼(ルスカ)の眼光をまっすぐ押し返せる人はいないだろう。ケンカで張り合えるのはタイソンぐらい」。
大塚直樹(新日本フロント)「ルスカの実力は間違いなく外国人世界チャンピオン」。
栗山満男(TVプロデューサー)「世界の柔道界はルスカはヘーシンクより上だと、ルスカの方を評価していた」。
門馬忠雄(ベテラン記者)「あいつ(ルスカ)は、出てくるウ○○まで強そうだ」

「モントリオールで金メダル2つ確実」はモントリオール五輪時に「36歳」であることを思えば、ちょっと言い過ぎだとは思います。ミュンヘン五輪後に引退した時に、「力の限界に達したこともあり、引退のしおどきと思う」と語ったルスカが36歳まで精神的なピークを持続することは難しかったと思います。しかし、ルスカに「36歳でも強い」と思わせる実力があったのは事実だと思いますし、筋肉隆々で「ひょっとしたら」と思わせるだけの肉体的コンディションを4年後まで保っていたのは間違いありません。

ルスカには後年、次のようなエピソードがあります。ルスカが53歳の時、オランダ在住の格闘技ライターがルスカを取材した際に、ルスカが現役のオランダ重量級のチャンピオンとたまたま乱取りをしており、オランダ王者はルスカに歯が立たなかったというのです。

一方のヘーシンクは後年肥満と不摂生が目立ち、「40代、50代でも柔道が強い」というオーラは全く感じませんでした。私見ですが、仮に「40歳同士、50歳同士」のヘーシンクとルスカが柔道で戦ったら、やはり「ルスカ有利」だったのではないかと思います。
しかし、お互いの「全盛期同士」が対戦したら、勝負は微妙なものとなるはずです。最後に専門家の意見をご紹介してコラムを締めくくります。

2004年4月にくも膜下出血で65歳で亡くなられた全柔連広報委員長、新聞記者OBの横尾一彦さんは生前に下記のような記事を残されています。横尾さんは早稲田大柔道部、学連委員長出身で柔道の記録、歴史の大家で、私が手本とする方なのですが、「ヘーシンクとルスカとどちらが強かったと比べられるが、ルスカは日本選手に何度か敗れているし、総合力、特に支え釣り込み足から崩して寝技に持ち込むヘーシンクの迫力は間違いなく一枚上だったと思う」と書かれています。

25年前に大澤慶己十段(当時八段)は、山下、ヘーシンク、ルスカの三者を比較して、「全盛期のヘーシンクに対してはたとえ山下でも容易に一本は取れまい。ただ、山下は受けも強いし、攻撃のチャンスをつかむのが上手だ。お互いに攻め合う目の離せない好勝負になるでしょうね。この2人に肉迫するのがルスカでしょう」と微妙な差ながらヘーシンクに軍配をあげています。

後年IOC委員にまで上り詰め、99年にソルトレーク冬季五輪開催地決定を巡る収賄疑惑という金銭スキャンダルこそあったものの、常に日の当る「表街道」で順風満帆の人生を歩んだヘーシンク。

世界初優勝時の新聞記事で「職業バーテンダー」と紹介されたものの、実態は酒場の用心棒(バウンサー)であったといわれ、「裏稼業」との付き合いも噂されるなど波乱万丈の人生を歩んだルスカ。

 

その後の2人の人生は大きく明暗を分けた感があります。

ともあれ、近年ではダビド・ドゥイエ(フランス)という強豪も出ましたが、ヘーシンクとルスカの最強論争は今後も永遠に繰り返されるものと思います

 

 

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