HOME WAR TOP 戦車 戦車年表
I号戦車A型

第1次世界大戦に敗れ、ヴェルサイユ条約により新兵器の開発が禁じられたドイツであったが、戦後間もない1921年には、連合軍の監視の目を逃れながら、早くも戦車の研究に着手している。
これが軽トラクターと呼ばれるもので、1928年に試作車6両が完成した。
こうして隠密裏に、来るべき再軍備に備えて戦車の開発を始めたドイツであったが、1931年に入って間もなく、将来の戦車戦力に関する研究を、当時、機甲運用の理論家として頭角を現してきたグデーリアン中佐に命じる。

この要求に応じてグデーリアンは、火力、防御力、機動力の3拍子がバランスよく取れた戦車が必要だが、差し当たっては数量が必要であり、機甲戦術を含めた訓練に供することができる軽戦車の早急な実用化が望ましいという提案をした。
これに従って、戦車の開発を担当する兵器局第6課は、1932年にクルップ、ヘンシェル、MAN、ラインメタル、ダイムラー・ベンツ各社に対し、7.92mm機関銃2挺を砲塔に備える5t級軽戦車の開発要求を出した。

この戦車は、連合軍から察知されることを避けるため、LaS(Landwirtschaftlicher Schlepper−農業用トラクター)という秘匿名称が与えられ、最終的にクルップ社の案が選択されて、試作車が発注されることになる。
この要求より先の1931年秋から、クルップ社はスウェーデンのランツベルク社と共同して、イギリスのカーデンロイド豆戦車をベースとした輸出用軽戦車の開発を進めており、その経験が買われたのであろう。

実際、LKAと呼ばれたこの輸出用軽戦車の試作車は、1932年7月に完成しているが、そのスタイルは、後にI号戦車として制式化されるLaSと酷似しており、LKAの開発で得たノウハウをそのまま用いたことが分かる。
また、LaSの試作車発注と同時に、上部車体の製作がダイムラー・ベンツ社に命じられたが、これは、戦車製作の経験を広めるために採られた措置であることはいうまでも無い。

試作車は1933年9月に完成し、12月には運用試験が始められたが、これに先立つ11月に、ヘンシェル社との間に150両の生産契約が交わされ、生産車は同年末からロールアウトし始めた。
もっとも、まだヴェルサイユ条約を破棄していない関係上、量産車はしばらくの間1A LaS Kruppと呼ばれており、Sd.Kfz.101の特殊車両番号と、I号戦車A型の制式名称が与えられたのは1938年になってからであった。

I号戦車A型は、基本的にはLKAと大差無い車両で、機関銃装備ということもあって、乗員は操縦手と車長の2名とされ、車体前部に変速機と最終減速機を置き、その後部に、鋼板を6角型に組み合わせた戦闘室を設け、その後部が機関室というレイアウトを採っている。
機関室には、クルップ社製のM305 水平対向4気筒空冷ガソリン・エンジン(出力57hp)が収められているが、一部の車両では試験的に、同社製のM601空冷ディーゼル・エンジン(出力45hp)が使用された。

エンジンの後方にはオイルクーラーが、その左右には72リッター容量の燃料タンクがそれぞれ配されており、エンジンの排気は、左右のフェンダー上に装備されたマフラーに排気管を導いて行う。
このエンジンから、車体前部に置かれた前進5段/後進1段のZF社製FG35変速機にドライブシャフトが導かれており、操向装置は、単純なクラッチ&ブレーキ式が採用されている。

操縦手は変速機の左側に収まり、戦闘室の前面に設けられた開閉式のクラッペを用いて視界を得ているが、戦闘室の左右にも、前面よりやや小振りな開閉式クラッペが備えられている。
このクラッペは、戦闘室の後方左右と後ろにも装備されているので、合わせて6基を備えることになるが、車長との位置関係からほとんど用を成さない右後方のクラッペは、生産の早い段階で廃止されている。
また、戦闘室左側面には操縦手用のハッチが用意されていた。

戦闘室の上には、車長が収まる砲塔が、車体中心線上より右側にオフセットして載せられており、前面には7.92mm機関銃MG13 2挺を備えている。
砲塔には直接、車長用の座席が備えられており、左前方に機関銃の俯仰用ハンドルが、右前方には砲塔旋回用のハンドルがそれぞれ設けられ、このハンドルには機関銃射撃用の引き金が装備され、別々に射撃を行うことができた。

機関銃は−12〜+18度の俯仰角を有し、弾薬は25発を収めたクリップから供給され、砲塔内にこのクリップ8個入りの弾薬ケースが備えられ、同様に、車体内に弾薬ケース4個(クリップの収容数はそれぞれ6個、8個、19個、20個)が置かれ、弾薬の総搭載数は1,525発となる。
操縦手との連絡は伝声管を用い、また砲塔上面には、専用の大きな半円型ハッチが用意されている。

特筆に価するのは、受信に限られているが、戦闘室内にFu.2無線機が装備されており、開発当初から、集団での運用を念頭に置いていたことが分かる。
アンテナは戦闘室の右側面に設けられ、フェンダー上の収納ケースに戦闘室内からのハンドル操作で起倒するが、砲塔を右に旋回する場合、ギアと連動して自動的にアンテナが倒れて、機関銃と接触することを避ける機構が採用されていた。

装甲厚は、車体と戦闘室、砲塔の前面および側、後面が13mm、大きな傾斜角を持つ車体前部上面と砲塔の上面が8mm、機関室上面が6mmと、当時としても非力なものであったが、小銃弾や弾片程度には耐えることができ、訓練を主目的としていたので、特に問題視はされなかった。
なお、弾薬ケースを収めていることで、戦闘室左側面に設けられたハッチの下部の部分には、13mm厚の増加装甲板がボルト止めされている。

足周りは、カーデンロイド豆戦車のものをトレースしており、最前部の転輪のみコイル・スプリングが用いられているが、続く後方の第2、第3転輪と、第4転輪、誘導輪は、それぞれリーフ・スプリングを用いて2輪ずつ支えられており、誘導輪は転輪と同様、地面と接地する位置に設けられている。
そして、第2転輪から誘導輪まで細長いガータービームで連結しているが、原型となったLKAでは、転輪はやや大きなものが用いられ、反対に誘導輪は転輪よりも小さく、ガータービームも無かった。

上部支持輪も、I号戦車A型では3個となっているが、LKAでは2個しかなく、このあたりは試験の結果を反映しているようである。
I号戦車A型の生産は、ほとんどヘンシェル社とクルップ社で行われたが、エッセン・クルップ、ダイムラー・ベンツ、MANの各社も生産に協力している。

これは、各社に生産経験を積ませようという意図があったためで、この方針も、ドイツ戦車工業の発展に一役買っている。
I号戦車A型の生産は1936年まで続き、818両が生産されたが、実際に使用してみるとエンジンの出力不足が目立ち、さらには冷却能力の不足や、サスペンションの効きが悪く、不整地での機動性が問題視されることになったので、これを改めるべく開発されたのがI号戦車B型である。

<I号戦車A型>

全長:    4.02m
全幅:    2.06m
全高:    1.72m
全備重量: 5.4t
乗員:    2名
エンジン:  クルップM305 水平対向4気筒空冷ガソリン
最大出力: 57hp/2,500rpm
最大速度: 37km/h
航続距離: 145km
武装:    7.92mm機関銃MG13×2 (1,525発)
装甲厚:   6〜13mm
















































inserted by FC2 system