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V号戦車パンターD型

●パンター中戦車の開発


1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻により第2次世界大戦の幕が開いたが、これに先立つ1938年に、主力戦車であるIII号戦車と、支援を任務とするIV号戦車を一本化した後継戦車の開発を、VK2001の名称で着手していた。
最初に開発要求が出されたのは1939年10月のことで、ダイムラー・ベンツ社が選ばれて開発作業が始められた。

これとは別に、クルップ社も独自にIV号戦車の発展型を研究していたが、電撃戦における戦訓を加味してこの計画を放棄し、新たに20t級戦車の開発をVK2001(K)の名称で行うことになった。
この両社に続き、1940年初めにMAN社も、20t級新型戦車の開発を行うことになったが、トーションバーを採用していたのが大きな特徴である。
ちなみに、この20t級戦車開発に際して要求されたことは、

1.大直径転輪を用いて上部転輪を廃止する
2.トーションバーの採用
3.大出力かつ小型の最新型エンジンを使用する
4.動力補助付き半自動変速機の採用
5.新型操向装置の導入

等であった。
III号戦車、IV号戦車をそれぞれ開発して経験の深いダイムラー・ベンツ、クルップ両社が、要求されていたトーションバーを採り入れなかったのは、それぞれの経験に基づくものであった。
ダイムラー・ベンツ社では、トーションバー(すでにIII号戦車で採用済み)は、車内容積を減らす上に交換に手間取り、さらに射撃のために停止した際、微妙な振動が残り、照準をやり難いことをその反対理由としている。

一方、クルップ社も、車内容積の問題や、砲塔旋回用エンジンと弾薬庫のスペース確保という点から、リーフ・スプリングを採用していた。
1941年6月に独ソ戦が勃発すると、T-34中戦車やKV-1重戦車などのソ連新型戦車に対して、ドイツ戦車師団の主力であったIII号、IV号戦車は厳しい戦いを強いられることになった。

特にT-34中戦車は、それまでの戦車とは全く異なるコンセプトで作られており、その、全体に傾斜装甲を採り入れた斬新なデザインと強力な火力・防御力は、ドイツ軍に大きな衝撃を与えた。
独ソ開戦でT-34中戦車を目の当たりにした軍首脳のうち、特に戦車のエキスパートであったグデーリアンは、その脅威を軍集団司令官に報告すると共に、T-34中戦車に対抗できる新型戦車の開発を早急に進めることと、そのために軍、軍需省、軍需産業代表による調査団を送って、T-34中戦車を調査することを要請した。

この要請に応じて、1941年11月20日、軍需大臣アルベルト・シュペーアを長とする調査団が東部戦線に派遣され、捕獲したT-34中戦車を徹底的に検討した結果、より強力な装甲と火力を備えなければ、T-34中戦車に対して優位に立つことはできず、このため、20t級戦車ではこの要求に応えることはできないと判断され、計画は30t級に移行して、VK3001に名称も変更された。

すでに1941年7月18日には、ラインメタル社に対して新型戦車砲の開発要求が出されており、同時に、この砲を装備する砲塔の開発も要求されていた。
この30t級戦車の開発は、ダイムラー・ベンツとMAN両社が担当することとなったが、以前よりも要求は具体的で、その基本仕様は下記のとおりである。
サイズは、最大幅3,150mm、最大高2,990mm、最小地上高500mm、戦闘重量は35t。

装甲防御力は、前面装甲は60mmで35度の傾斜角、側面装甲は40mmで50度の傾斜角で、全体に傾斜装甲を採用すること、車体上面と底面は16mmの装甲厚で可。
機動力については、エンジン出力650〜700hp、外気温42度まで対応できる良好な冷却システムを備えること、登坂力35度、超堤高80cm、路上最高速度55km/h、1速での速度4km/h、航続距離は作戦時で最大5時間とする、等である。

1942年1月22日、設計見積りの結果、VK3001の戦闘重量は、当初の見積りの32.5tから36tに引き上げられた。
そして、MAN社とダイムラー・ベンツ社それぞれの設計案に基づく模型が展示された。
両案のうち、より斬新なのはダイムラー・ベンツ案のVK3001(D)だった。
そのデザインは、MAN案のVK3002(M)と比較して、よりT-34中戦車に似通ったデザインであった。

VK3002(M)が、後面は上部が突き出した一枚板で形成されたのに対して、VK3001(D)では、T-34中戦車同様の上下別となっており、中央部が突き出したテーパーを持っていた。
T-34と同じリア・ドライブを採用した関係で、砲塔位置もT-34同様前寄りで、エンジンにもT-34と同じくディーゼル・エンジンを採用することになっていた。

ただし、サスペンションはリーフ・スプリング式で、転輪は、ドイツ的な左右が重なり合ったオーバーラップ式だった。
そして砲塔は、ドイツ的オリジナルデザインで、後のパンターF型で採用されるシュマルトゥルム(小砲塔)に似ており、防盾はいわゆるザウコフ型をしていた。
これに対してVK3002(M)は、やはりT-34中戦車に似ていたものの、ドイツの設計要領も採り入れられていた。

車体外形こそ、T-34中戦車の傾斜装甲のアイデアを採り入れたが、車内レイアウトは、これまで通り後部にエンジンを置き、ドライブシャフトを介して、前部のトランスミッションを通じて起動輪を駆動するようになっていた。
その結果、砲塔は車体の中央に位置し、これは、長砲身砲を搭載したことによるノーズヘビーの傾向を弱めてくれた。
エンジンも、ドイツ戦車共通のガソリン・エンジンのままであった。

武装については、両案とも同じ、70口径という長砲身の7.5cm戦車砲KwK42を装備していたが、このKwK42は、徹甲弾使用時の火力性能が、初速925m/秒で、射距離100mで138mm(衝角60度)、500mで124mm、1,000mで111mm、2,000mで89mmの装甲貫徹が可能であった。
この性能は、ティーガーI重戦車の56口径8.8cm戦車砲KwK36とほぼ同じであった。
1942年2月、ダイムラー・ベンツ社は、VK3001(D)の試作車両を5月までに完成することを求められた。

一方MAN社も、同じ時期までにVK3002(M)の試作車両を完成できるよう、急ぎ作業を進めた。
ヒトラーは両案のうち、より進歩的なVK3001(D)に惹かれていた。
その結果、シュペーアの勧めもあり、1942年3月6日にVK3001(D) 200両の量産発注を行い、量産化に必要な処置を取るよう命じると共に、1週間以内に完全な報告書を提出することを求めた。
両案の設計図面は、5月初めまでには完成した。

これらの案を検討するため、兵器局第6課の監督下に戦車委員会が設立された。
同委員会は、両提案に対して2つの点を要求した。
その1つは、部隊には、優れた武器を備えたこの車両が、少なくとも1943年夏までには、大量に装備されることが必要であること。
そしてもう1つは、数量的に勝る敵に対抗するためには、質的に優越した兵器が必要ということだった。

両案について比較すると、機動力については両案とも要求を満たしていた。
出力/重量比22hp/tという値は満足させなかったものの、路上での巡航速度は40km/hで、最大速度は55km/hであった。
航続距離については、VK3001(D)が、ディーゼル・エンジンではあったものの、燃料搭載量が550リットルだったのに対して、VK3002(M)は、燃料搭載量が750リットルもあって、少し有利だった。

武装については、両案とも同じ70口径7.5cm戦車砲を装備しており、弾薬搭載数も同じだったが、VK3001(D)は、締め切りまでに実際の砲塔を完成させられなかった。
しかも、VK3001(D)の砲塔は、実用化までにかなりの改良が必要だった。
ただし、そのザウコフ型防盾は、VK3002(M)のものより被弾に際して有利であることが認められていた。
砲塔のリングは、VK3001(D)の方が50mm小さかったが、これは別の意味で問題となった。

つまり、VK3002(M)の車体であれば、VK3001(D)とVK3002(M)のどちらの砲塔も、選択次第で搭載することが可能だったのに対して、VK3001(D)の車体では、VK3001(D)の砲塔しか搭載できないのである。
その上、それが締め切りに間に合わなかったのである。
装甲防御力については、両案とも同じ厚さ同じ角度となっており、要求を満たしていた。

車体内部スペース的には、後部にエンジンとミッションをまとめたVK3001(D)の方が、特に操縦手と無線手スペースについて有利だった。
VK3001(D)は、足周りにリーフ・スプリングを使っていたが、これによって車高を100mm低くすることができた。
ただ、このことが車体を小型化させ、砲塔リングを50mm小さくさせた原因となったのは、ある意味では皮肉だった。

一方、VK3002(M)は、ダブル・トーションバーという新しいトーションバー・システムを採用していた。
これは、2本のバーを束ねて1本の軸の緩衝をすることで、それぞれのバーにかかる力を減少させることができた。
VK3001(D)とVK3002(M)の大きな違いに、フロント・ドライブとリア・ドライブというドライブ方式の違いがあった。
当時、一般的に戦車は、フロント・ドライブの方が有利と考えられていた。

1942年5月11日、検討の結果、最終的に戦車委員会は、MAN案のVK3002(M)を支持する結論を出した。
その決定の理由となったのは、何よりも、ダイムラー・ベンツ案のVK3001(D)の砲塔が完成しておらず、代わりにVK3002(M)の砲塔を搭載する代替策も取れなかったからである。
また、VK3001(D)の予定したMB507ディーゼル・エンジンは、必要数の生産ができそうになかった。

そして、VK3001(D)は履帯幅が狭く、不整地行動能力が劣ると考えられること、そして、そのリーフ・スプリング・サスペンションは、VK3002(M)のトーションバー・サスペンションより緩衝性能が劣っていたからであった。
5月13日、ヒトラーに対する説明が行われた。
ヒトラーはまだ、ダイムラー・ベンツ案のVK3001(D)を推していたが、決定打となったのは、ダイムラー・ベンツ案ではスケジュールが遅れるばかりで、必要な新型戦車が期日までに取得できないという事実であった。

さすがに、2種類を作り続けることも非現実的だった。
翌日、ヒトラーは決断し、MAN案のVK3002(M)が、後のV号戦車パンターとして製作することが決定された。
VK3001(D)の生産はキャンセルされ、結局1両も完成しなかった。
パンター中戦車は、1943年5月までに最低250両が必要とされた。
生産の緊急性から、MAN社試作車体の製作は大急ぎで進められた。

軟鋼製のプロトタイプ第1号車(V1)は、1942年9月終わりに完成した。
その時点では、まだラインメタル社製の砲塔は完成しておらず、プロトタイプ車体にはダミー砲塔が搭載されていた。
続いて、完全なプロトタイプ第2号車(V2)が完成して、11月初めにベルカ試験場でデモンストレーションが行われた。


●パンターD型


パンター中戦車の量産にあたっては、MAN社だけでなく、ダイムラー・ベンツ社、MNH社、ヘンシェル社なども生産に加わることとされた。
それぞれ生産予定は、1943年4月までに、MAN社が84両、ダイムラー・ベンツ社が91両、MNH社が61両、ヘンシェル社が36両の合計254両となっていた。
当初、発注数は1,000両とされていたが、生産中に発展型のA型が完成したことで、850両に減らされた。

先行生産型から量産型へは、数々の変更が盛り込まれた。
最大の変更点は、砲塔デザインと最終減速機である。
砲塔は、原型では、キューポラが砲塔側面からはみ出してバルジが設けられていたが、生産型では、砲塔形状を変更してキューポラが内側に入るようにし、バルジは省略された。

また、主砲先端のマズルブレーキは、原型では、IV号戦車F2型と同じシングルバッフルのものだったのが、ダブルバッフルのものに改められている。
最終減速機に関しては、実は生産型でも問題は解決されなかった。
大重量化した車体に比して強度が不足しており、金属疲労によってすぐにクラックが入る傾向があった。
この問題に関しては、継続的に解決法の検討が続けられた。

また、ヒトラーの要求で、前面装甲厚は80mmに増加された(最初の20両は変更が間に合わず、60mmのまま生産されたともいわれる)。
パンター中戦車の生産スケジュールは、技術者の努力にも関わらず、全体に遅れ気味であった。
MAN社は、1942年12月までに4両の完成車体を完成させるはずであったが、第1号車が完成したのは1943年1月11日であった。

量産型第1、第2号車は、1月24日にグラフェンベール訓練場の第51戦車大隊に送られ、部隊訓練に使用された。
1月26日には第3号車が完成したが、これは会社側の試験に使用された。
第4号車は、軍の試験のためクンマースドルフ試験場に送られた。
なお、VK3002(M)の生産型は、V号戦車パンターD型(Sd.Kfz.171)と命名されている。
なぜ、最初のタイプ名がD型なのかは、今に至るも分からないパンター最大の謎である。

VK3002(M)原型がA型で、エンジン、トランスミッションの改良が図られた、ペーパープランに終わったB、C型があったとする説もあるが、最近の資料でも証明されていない。
パンターD型は、1943年1月から9月にかけて842両が生産された。
当初の発注数より少ないのは、一部車体が回収型ベルゲパンターに流用されたためである。

製造番号は、MAN社が210001〜210254(242両)、ダイムラー・ベンツ社が211001〜211250(250両)、ヘンシェル社が210254〜212130(130両)、そしてMNH社が213001〜213220(220両)で、製造番号と生産数が見事に一致していることがよく分かる。
様々な紆余曲折を乗り越えて生産に入ったD型であったが、1943年1月末に、それまでに完成した3両を用いて運用試験を行った結果、様々な問題が判明した。

まず、砲塔を旋回すると、左右の角が操縦手と無線手のハッチと干渉することが分かり、これは、前端部を斜めに3cmカットすることでクリアーした。
さらに、主砲の俯角を−7.5度以上とした場合、照準機が砲塔内の主砲マウントに当たってしまうため、砲塔前部に三角形の鋼板を溶接し、これ以上砲身の俯角を取ろうとしても、防盾の後端がこの鋼板により止められるという、いかにも応急的な処置で切り抜けている。

また、俯角をかけると、リコイル・ガードが車長席にぶつかるために、車長席を後方に移動させ、キューポラのハッチも、開閉レバーと旋回ハンドルの位置関係が悪くて開け難かったため、改修が必要となったが、これはすぐに行うことはできず、1943年4月以降の生産車から改められることになった。

これは、4月以前に生産された完成車に対しても、後に改修作業が行われている。
また、時期は不明だが、エンジン点検用ハッチの上に設けられたインテーク・カバーは、潜水時には回して閉めるため、角のような把手が取り付けられていたが、折損し易いために、コの字型に形状を改めた。

この他、合わせて45カ所以上にも及ぶ改修が必要とされたが、生産の遅延を防ぐために生産を続行させ、4月から、それまでの生産車をデマーグ社において、兵器局第6課の指示による改修作業を実施し、生産中の車両は、この時点で改修を採り入れて完成させるという方式が採られた。
以下、主要な改修点について列記する。

車体
・燃料タンクの再溶接
・燃料タンクへの換気孔新設
・3段階式燃料マニフォールドを無段階式に換装
・変速機と操向装置の遊星ギアの新型化
・ブレーキ取り付け部の強化
・第2、第7サスペンションのショック・アブソーバーのレバーを強化型に換装

砲塔
・キューポラにTSR1ペリスコープを新設
・主砲のリコイル・ガードに金属板装着
・砲塔内へのトラベル・ロック新設
・主砲照準機マウントの強化
・同軸機関銃の薬莢排出チューブの位置変更
・同軸機関銃の発射ケーブルを2.5mm径に強化し、発射ペダルの位置を変更
・連絡用側面ハッチと脱出用ハッチのヒンジ強化と、雨除けの新設
・脱出用ハッチの開状態位置での固定ラッチ新設
・砲塔バスケットの強化

また、潜水装置の廃止に伴い、各部に施された防水シールは簡易タイプに改められた(これは、8月からの生産車で採られたもので、以前の潜水装備未装備の状態で完成した車両では、金属製の蓋をシュノーケル・パイプ収容部にボルト止めしていたが、この蓋を外して金網が張られている)。
これらの改修とは別に、生産中に段階的に改良が行われることになるのは他国の戦車と同じだが、パンターの場合は、実用試験に供する時間が極端に少なかったことが災いして、生産中の改良が極端に多くなった。

以下、簡単にこれらの改良点を列記する。
生産当初は、砲塔側面に発煙弾発射機が備えられていたが、実戦で使用してみると、小口径銃弾により簡単に破壊されてしまうことと、再装填にあたって、乗員が車外に出なければならないことが問題となり、1943年7月生産分から廃止されることになり、砲塔左側面の連絡用ハッチも、防御上の問題により、8月生産分から廃止が決まった。

4月からの生産車では、対戦車ライフルに対する防御策として、シュルツェンと呼ばれる8mm厚の取り外しが可能な装甲板が装着され、これに加えて、前述のキューポラ・ハッチ開閉装置の新型化や、圧搾空気を用いた、主砲砲身内の発射ガス排出装置も導入されている。
また、砲塔の連絡用ハッチと脱出用ハッチの上に雨除けが新設されたのも、4月生産車からの特徴である。

5月生産分からは、エンジンをHL210P30から、HL230P30に換装したのが最大の相違点で、生産第251号車がエンジン換装初号車に相当している。
この変更に合わせて、それまでエンジン点検用ハッチの裏側に装着されていたエンジン工具類が、位置を変えた(どこに移動したかは不明)。

このエンジン換装により、出力は50hp増加して700hpとなったが、HL210が、ブロックに軽合金を用いることで軽量化を図っていたのに対して、HL230では、軽合金の使用を避け、通常の鋳鉄としたために、エンジンの重量は350kgほど増えている。
前述のデマグ社で改修を施した車両は、クルスクでの夏季攻勢への投入を控えて機動訓練等を行っていた、グラフェンヴェーア訓練場近くのヴァイデン社において、最終改修が施された。

ここで盛り込まれた改修は、訓練中に判明した問題点を反映したもので、まず、走行中に転輪のゴム縁が外れ易いとの報告を受けて、転輪ハブの継ぎ目をV字型に改め、転輪の結合ボルトの間にリベットを追加して、ゴム縁の締め付けを強化した。

続いて、起動輪後方に装着されているダンパーを強化し、取り付け部は溶接、さらに変速機を外してメーカーのZF社に送り、改修を行った後に再び搭載するという作業を行い、燃料タンクのカバーに換気用のパイプを追加する等の改修が実施された。

7月からの生産車では、砲塔左右に装備されていた発煙弾発射機と車体左側の前照灯が廃止され、8月からの生産車では、砲塔左側面の連絡用ハッチの廃止、燃料給油口とエンジン・エアインテーク周囲の雨除け新設、車長用キューポラへの対空機関銃架装着リングの追加等が行われた。
8月生産車からは、転輪のゴム縁をより強固に締め付けるため、それまで16本のボルトで固定されていた内外の転輪を、24本のボルトで固定する方式に改めている。

また、主砲防盾の照準機用開口部の上にも、雨除けが追加された。
採用時期は明らかではないが、6月25日に行われた会議で、砲塔内の発射ガスを速やかに車外に排出するため、発射ガスが噴出する部分にあたる空薬莢収容箱の下部にフレキシブル・パイプを装着し、これを直接ベンチレーターに導くという方式が採られることになった。
おそらく、7〜8月の生産車から装備が始まったものと見られる。

生産がA型に切り替わる9月の生産車では、磁気吸着地雷防止策であるツィンメリット・コーティングの塗布が開始されたが、9月以降におけるD型の生産数は少なく、さらに、コーティング材料も十分用意されたわけではなかったため、コーティングを施されて完成したD型は非常に少なかった。
また、履帯に防滑用のハの字型シェブロンのモールドが追加されるようになったのも、9月分生産車からである。


●戦歴


最初に生産されたパンターD型は、第51、52戦車大隊に配属された。
両大隊は司令部予備の第10戦車旅団を編成し、作戦にあたってはグロースドイッチュラント機甲擲弾兵師団に配属されて、1943年7月のクルスク戦に投入された。
しかし、パンターの初陣は、機械故障の続出で散々であった。

パンターD型は、エンジンに起因する故障が多発し、さらには、燃料パイプから漏れた燃料が、過熱しているエンジン等に触れて発火するといった事故が後を絶たなかったのである。
同旅団は、各々の大隊に96両ずつ、合計192両のパンターD型を装備していたが、第1日目の終了後、稼働できたパンターはわずか40両に過ぎなかった。


<パンターD型>


全長:    8.86m
全幅:    3.42m
全高:    2.95m
全備重量: 43.0t
乗員:    5名
エンジン:  マイバッハHL210P30 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 650hp/3,000rpm
最大速度: 55km/h
航続距離: 250km
武装:    70口径7.5cm戦車砲KwK42×1 (79発)
        7.92mm機関銃MG34×1 (2,500発)
装甲厚:   16〜100mm






































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