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●開発 第2次世界大戦に敗れたドイツは、各連合国に占領され、独立国ではなくなってしまった。 連合国は、ドイツを再び戦争を起こすことの無い平和国家とするため、兵器の開発を禁止した。 こうして、優秀なドイツの戦車技術も失われるかと思われたが、米ソの冷戦の勃発は事態を根本から変えた。 ソ連は、自国の占領地域をドイツ民主共和国(東ドイツ)として独立させ、これに対抗してアメリカ、イギリス、フランスは、3国の占領地域をドイツ連邦共和国(西ドイツ)として独立させたのである。 そして、NATO(北大西洋条約機構)に加盟することで再軍備を認めた。 再軍備にあたっては、各種装備はアメリカから供与されたが、戦車は、M41軽戦車、M47中戦車、そしてM48中戦車が引き渡された。 これらは、戦後のアメリカ軍を支えた優秀な戦車であったが、いかんせん基本設計が古く、すでに旧式化が始まっていた。 それに何より、西ドイツ軍の運用構想に合わなかった。 これらの戦車は、将来戦場に不可欠と考えられたNBC防護能力を持たなかったし、大柄で大重量過ぎると考えられたのである。 このため西ドイツ陸軍は、自軍の運用構想に合致した30t級MBT(主力戦車)を国産開発することを決定し、1956年11月23日に計画をスタートさせた。 ちょうど同じ頃、西ドイツと同じくアメリカ製戦車を使用していたフランスでも、新型MBTの開発構想が練られていた。 同様な戦車を求める両国が、共同開発に向かったのは自然な成り行きであった。 1957年6月、西ドイツとフランスとの間で、ヨーロッパ戦車(オイロパンツァー)、あるいは標準戦車(シュタンダルトパンツァー)の開発に関する軍事協定が結ばれた。 1957年7月25日にまとめられた技術仕様は、以下のようなものだった。 ・戦闘重量30t級 ・出力/重量比30hp/t ・多燃料空冷エンジン ・路上航続距離350km ・サスペンションはトーションバーか油気圧式 ・全幅3,150mm ・履帯接地圧9.8kg/cm2 ・2,000〜2,500mの射距離で、衝角30度の150mm厚均質圧延鋼板を貫徹する能力を持つ ・近接距離からの20mm機関砲弾の直撃に耐える ・NBC防護能力 ・24時間の連続戦闘行動が可能 これを見ると、火力と機動力が優先され、装甲防御力はあまり考慮されていないことが分かる。 これは、当時フランスが開発を進めていた対戦車ミサイルの発達で、戦車の装甲防御力がほとんど無意味になるという発想に基づくものであった。 その代わりに機動力が重視されていたが、これは、それで対戦車ミサイルを回避しようというものである。 この規格についてはさらに協議が進められて、1958年4月1日に最終的な合意が両国国防省で合意されたが、そこでは全幅が、フランス案で3,100mm、西ドイツ案で3,250mmに変更されていた。 さらに同年9月には、イタリアも計画に加わることが決まった。 ただし、イタリアは開発そのものには直接には参加せずに、完成した車両を採用することになっていた。 標準戦車は共同開発とされたものの、実際は共通の仕様を定めただけで、試作車の開発は独仏双方が別個に行うこととされた。 1959年5月6日、独仏両国での試作車の製作が開始された。 西ドイツは、各企業が技術習得する意味もあって、A、B2つのグループが各2両ずつの第1次試作車を製作することになった。 Aグループは、ポルシェ社を中心に、アトラスMaK社、ユンク社、ルーター&ヨルダン社から成り、Bグループは、ルールシュタール社を中心として、ラインシュタール・ハノマーク社、ラインシュタール・ヘンシェル社から成っていた。 ただし、両グループが製作するのは車体だけで、砲塔部はヴェクマン社とラインメタル社で作られることになっていた。 1959年に、両グループ共に実物大木製モックアップを製作し、続いて実車両の製作に移行した。 Aグループの試作車の製作は、1960年5月に開始された。 2両の試作車の内、A1はユルゲンタールのユンク社で同年6月16日から、A2はキールのMaK社で8月27日からそれぞれ実作業が開始され、1961年1月に完成した。 これらはポルシェ・タイプ723と呼ばれ、重量35t、主砲にはラインメタル社製の90mmライフル砲を装備し、ダイムラー・ベンツ社製のMB837A 4ストロークV型8気筒液冷ディーゼル・エンジンを搭載して、路上最大速度65km/hを発揮可能であった。 一方、Bグループの2両の試作車の製作は、B1をハノーバーのラインシュタール・ハノマーク社、B2をカッセルのヘンシェル社が担当した。 Bグループの設計も、全体的なイメージはAグループとさして変わらなかったが、大きな違いは足周りで、Aグループが片側7個の転輪をトーションバーで懸架したのに対して、Bグループは転輪が片側6個で、それを油気圧式サスペンションで支えていた。 またトランスミッションも、Aグループが5速シンクロメッシュ・ギアボックスだったのに対して、Bグループは8速プラネタリー・ギア式で、流体変速機を採用していた。 エンジンについても、一応、Aグループと同じMB837Aディーゼル・エンジンが搭載されることになっていたが、ハノマーク社で新型の2ストローク多燃料ディーゼル・エンジンが開発されることになっていた。 Bグループによる試作車の製作作業は、B1が1960年5月20日から、B2が同年7月9日から開始されたが、軍への引き渡しは1961年9月にまで遅れてしまった。 これは、流体変速機、油気圧式サスペンション、新型エンジンなどの開発に手間取ったためで、数多くの新機軸を盛り込んだことが、かえって仇となってしまったわけである。 なお、これらの試作車の主砲は、当初は前述したように90mmライフル砲であったが、1961年中に105mmライフル砲に変更されている。 この105mmライフル砲は、フランスが開発中の新型HEAT(対戦車榴弾)を撃てるのが特徴で、ラインメタル社で開発される予定であった。 しかし、当時すでに、イギリスのロイヤル・オードナンス社が開発した105mmライフル砲L7が存在していた。 この砲はその後、西側各国の第2世代MBTの事実上の標準砲となったほど優れた砲で、HEAT、APDS(装弾筒付徹甲弾)、HESH(粘着榴弾)など、西ドイツ軍を十分に満足させられる多様な弾種が揃っていた。 Aグループの試作車には、L7砲を装備したヴェクマン社製の砲塔が、Bグループの試作車には、ラインメタル社の試作砲を装備したラインメタル社製の砲塔が搭載された。 しかし、結局西ドイツ軍は、新型砲を開発するコストとリスクを考えてL7砲を新型MBTの主砲に採用し、1962年秋に、新型MBT用として1,500門を発注している。 なお、この砲は新型MBTの砲塔内で19度の俯角を確保するため、砲ブリーチの後端が削られており、このため、改良型としてL7A3の名称が与えられている。 また、L7砲と共に、イギリス製の12.7mmスポッティング・ライフルによる照準システムも、一旦採用されている。 西ドイツ軍は、新型MBTの開発を非常に急いでおり、第1次試作車が完成するとすぐ、完成車体を使っての試験段階に移行した。 1961年1月16日、Aグループの試作車が、トリーアにある第41兵器技術センターに納入された。 第41兵器技術センターは、自動車と戦車の技術開発を担当しており、後に開発されたレオパルト2戦車もここで試験が行われている。 しかし、トリーアは走行試験には十分だが、射撃試験には狭過ぎるため、メッペンに第91兵器技術センターが作られ、射撃試験に充てられることになった。 同年2月1日には、第41兵器技術センターで西ドイツ軍当局による最初の領収検査が行われ、2月3日には、フランス、イタリア軍関係者に披露された。 正式試験は3月9日に始められたが、ほぼ同時にフランスのサトリで、フランス側の試作車の試験が開始されている。 試験は非常に精力的に進められ、1962年1月31日までに、Aグループの試作車A1が6,256km、A2が9,738km、遅れて完成したBグループの試作車B1が4,486km、B2が4,997kmの試験を行っている。 試作車の完成を急いだため、この試験では色々な不具合が発生したといわれる。 試験は、1962年4月に終了した。 西ドイツ軍は、まだ第1次試作車が製作中であった1960年9月に、早くも第2次試作車の製作を発注した。 発注数は、Aグループに対して26両、Bグループに対して6両というもので、まだ競作の結論は出されてはいなかったものの、結果を予想させるのに十分なものであった。 このため、Bグループは同年10月に、発注分6両のうち2両を製作するだけで、以後の開発を断念することにした。 Bグループの敗因は、あまりに技術的冒険過ぎる設計を行い、それが原因となって開発スケジュールが著しく遅延したことであった。 Aグループの第2次試作車は、ユンク社9両、MaK社9両、ルーター&ヨルダン社8両の割り振りで製作された。 改良の結果、ポルシェ設計ナンバーはタイプ773に変更されている。 原型のタイプ723からの改良点は多岐に渡っているが、主なものとしては、前述したように105mmライフル砲L7A3の搭載、車体サイズの変更(幅が70mm広げられた)、操縦手席が車体前部左側から右側に移動した、前面装甲厚の50mmから70mmへの増厚、後面装甲厚の20mmから25mmへの増厚などである。 その結果、重量は39tに増加したが、エンジンが、原型のMB837Aを10気筒に改良したMB838ディーゼル・エンジンに変更され、出力が向上したことで、路上最大速度は73km/hを発揮できた。 第2次試作車は、ユンク社の第1号車が1961年11月に完成し、ルーター&ヨルダン社の第1号車は同年12月に完成した。 その後、1962年の春から夏にかけて次々と納入され、最後の3両が完成したのは同年12月のことであった。 これらを使ってメッペンで試験が開始されたのは、1962年1月2日のことであった。 同年9月には、第2次試作車のうち6両がムンスターに送られ、第2戦闘兵科学校第93訓練大隊で部隊試験が行われている。 この数は、最終的に17両まで増やされている。 この部隊試験の過程で明らかになったのは、イギリス製105mmライフル砲の採用に伴って同時に採用された、スポッティング・ライフル式照準システムの不十分な性能であった。 この方式は、主砲と弾道特性が同じスポッティング・ライフルで試射することで、正確な照準を行うものであるが、そうはいうものの、完全に同じ弾道特性を発揮することは不可能で、その有効な距離は1,500〜1,800mが限度である。 しかし、L7砲の有効射程はもっと大きい。 これを活かすため、西ドイツ軍はスポッティング・ライフルを捨て、基線長式照準機を採用することになった(実際には、この試験の前の1961年末にはすでに改良を決定していた)。 1962年10月から、メッペンで西ドイツ、フランス、イタリア3カ国による共同試験が開始された。 この試験には、ベルギー、オランダ、アメリカのオブザーバーも加わっていた。 なお、全く同じ時期にフランスの試作車も、フランスのサトリとブルージェで3カ国共同試験に臨んでいる。 第2次試作車の部隊試験は1963年4月に終わり、7月11日には初めて一般に公開された。 まだ第2次試作車の試験が続けられていたが、西ドイツ軍は早々と、増加試作の0シリーズの生産を決定している。 0シリーズは50両が生産されることとされ、1961年7月には開発が始められている。 0シリーズの生産は、1962年10月に始められた。 各社別の生産数は、ユンク社17両、MaK社16両、ルーター&ヨルダン社17両である。 0シリーズの技術試験は、メッペンで1963年6月から開始され、7月にはMaK社で、寒暖の温度試験が行われた。 0シリーズは、ポルシェ設計ナンバーではタイプ814と呼ばれる。 第2次試作車からの改良点は、まず、主砲用の基線長式照準機の装備で、それから車体、砲塔形状のリファイン、重量が40tに達したことに対応してダンパーが強化されたこと等である。 なお、0シリーズ用の砲塔は、ラインメタル社とヴェクマン社で50%ずつ分け合って生産されている。 0シリーズの生産が始められたことで、すでにほとんど意味は無くなっていたが、一応、西ドイツ、フランス、イタリアの共同開発計画は生き残っており、1963年8月から10月にかけて、メッペン、ブルージェ、サトリでイタリアを監督官として、0シリーズとフランス製試作車の比較審査も行われている。 なお、この審査が行われる直前の1963年7月には、フランス軍は自国の試作車をAMX-30と命名しており、審査中の10月1日には、西ドイツ軍も自国の試作車を正式に「レオパルト(豹)」と命名している(後にレオパルト2戦車が開発されたことで、レオパルト1となった)。 この審査でレオパルト戦車は、AMX-30戦車より6tも重いにも関わらず、10%も速度が速く、18%も加速性が良かった。 しかし、フランスの国防政策の変更と財政難で、フランス軍は1965年まで、いかなる戦車も購入することが不可能となった。 これにより、標準戦車構想は完全に終わりを告げ、西ドイツ、フランス両国は、勝手に自分の好きな戦車を生産することになった。 なお、両国の作り上げたどちらかの戦車を購入する方針であったイタリアは、こうしたトラブルに嫌気が差したのか、レオパルト、AMX-30のどちらも購入せず、無関係なアメリカからM60A1戦車を導入している。 レオパルト戦車の0シリーズの部隊試験は、1964年7月から1965年10月にかけて、ムンスターの第93訓練大隊で行われた。 この試験の最初の段階で、レオパルト戦車はシュノーケル・キットを使って、ケルンの近くで深さ4.2mのライン河を潜水渡河し、その性能をアピールした。 この試験は、レオパルト戦車の基本設計の優秀さを証明したが、一方で、細かい修正の必要性も明らかになった。 このため、全部で170カ所に上る設計変更が盛り込まれた。 1963年8月22日、1964年度予算でのレオパルト戦車の調達が議会で承認され、1,500両の生産発注が行われた(後に937両を追加)。 生産の主契約社には、これまでレオパルト戦車の開発とは全く関係の無かったクラウス・マッファイ社が指定された。 同時に、レオパルト戦車の車体をベースに開発された装甲回収車、自走戦車橋、装甲工兵車の生産と少数のレオパルト戦車の生産は、クルップMaK社が行うことになった。 あまりにも唐突かつ劇的な変更のように感じられるが、単に、クラウス・マッファイ社が他の企業よりも低コストで生産できることが判明したためらしい。 予算上、無駄を省くためならば、今まで開発の中心にいた企業を退けてでも既存の方針を変更するというのは、いかにもドイツ的である。 クラウス・マッファイ社は1965年9月に、ミュンヘンに新しい生産ラインを完成させ、レオパルト戦車の生産を開始した。 なお生産は、もちろんクラウス・マッファイ社だけでできるはずも無く、砲塔はヴェクマン社、主砲はラインメタル社、エンジンはMTU社が担当し、参加下請けメーカーは2,700社にも及んでいる。 レオパルト戦車の第1次生産分は、1965年9月に西ドイツ陸軍に引き渡され、1979年には生産が終了している。 本国のドイツ陸軍において、レオパルト戦車は現在第一線から退けられ、予備部隊の装備となっている。 海外のレオパルト戦車採用国は非常に多く、ベルギー、オランダ、ブラジル、カナダ、チリ、デンマーク、ギリシャ、イタリア、ノルウェーなど、地域を問わず広く輸出されている。 これほど多くの国に採用された理由は、車両の優秀性のみならず、クラウス・マッファイ社を始めとするドイツの企業が、各国の要求に合わせて改修するといった、細かい配慮をしたためである。 |
●構造 レオパルト1戦車の車体は、圧延防弾鋼板の全溶接構造となっている。 装甲厚は、前面上部70mm/60度、前面下部70mm/55度、側面上部35mm/50度、側面下部25mm/90度、後面25mm/88度、上面25〜10mm、底面15mmとなっている。 現在の目で見ると脆弱に思えるが、レオパルト1戦車はあまり装甲防御力を重視しておらず、当時としては十分と考えられていたようである。 車内レイアウトは、車体前部が操縦室、中央部が砲塔を含む戦闘室、後部が機関室という一般的なものである。 操縦手席は車体前部右側にあり、左側に開くスライド式ハッチが設けられている。 ハッチの前方には3基のペリスコープが用意されているが、中央の1基は夜間操縦用の画像強化型ペリスコープに換装することが可能である。 操縦手席の左側には弾薬ラックと、NBC加圧フィルター・システムがある。 また、操縦手席の下面には脱出用ハッチが設けられている。 車体中央部の戦闘室上には、105mm砲を装備した砲塔が搭載されている。 砲塔は、車体と異なり防弾鋼の鋳造製で、天井部は防弾鋼板の溶接である。 装甲厚は、前、側、後面とも60mmで、防盾は52mmである。 砲塔内には3名が搭乗し、右側前部に砲手、その後部に車長、左側に装填手が位置する。 砲塔上面右側には車長用ハッチがあり、ハッチの周囲には、外部の視察用に8基のペリスコープが配置されている。 この内の1基は、夜間視察のための画像強化型ペリスコープに換装することが可能である。 また、ハッチの前部には、車長用のTRP-2Aパノラマ式照準機(×6〜×20のズーム)が装備されている。 これは、任意の位置に設定しておけば、砲塔が旋回しても固定されるようになっており、必要な場合には、砲手にオーバー・ライドして照準することが可能である。 砲塔上面左側には装填手用ハッチがあり、前と左斜め前に各々ペリスコープが設けられている。 装填手の左側側面には小型のハッチがあり、砲弾の積み込みと空薬莢の排出に使用される。 メインの砲手用照準機は、ツァイス社製のTEM-2A基線長式測遠機で、倍率16倍、合致式/ステレオ式切り替え式、最大有効距離は4,000mである。 サブには、主砲と同軸のTZF-1A照準機(倍率8倍)があり、さらに上面にペリスコープが設けられている。 主砲防盾上には、XSM-30-U(後にXSM-30-Vに変更)白色光/赤外線サーチライトが装備されており、有効距離は白色光で1,500m、赤外線で1,200mである。 このサーチライトは、使用しない時は砲塔後部のボックスに収納される。 レオパルト1戦車の主砲には前述したように、西側第2世代MBTの標準となったL7系の51口径105mmライフル砲L7A3が採用されている。 この砲はNATO共通弾が使用できるが、元々評価が高いL7は、NATO諸国でも採用している国が多いことから、こうした共通性は無視できないメリットをもたらしている。 また、レオパルト1戦車は、野外において約20分で砲身の交換が可能となっている。 APDSを使用した場合、砲口初速1,478m/秒、発射速度は毎分10発で、射距離1,000mでの初弾命中率は85%、2,000mで40%、第2弾でそれぞれ98%、75%とされる。 携行弾数は60発で、このうち42発が操縦手席左の弾薬ラック、3発が即用弾ラック、15発が砲塔内に収容される。 内訳は、31発が対戦車用のAPDS、26発が対戦車/軟目標用のHESH、3発が発煙弾である。 副武装には、ラインメタル社製の7.62mm機関銃MG1(後にMG3)が2挺装備されている。 MG1/MG3は、第2次世界大戦中のドイツ軍の名機関銃である7.92mm機関銃MG42を、戦後、口径をNATO標準の7.62mmに改めて改良した機関銃である。 1挺は主砲と同軸、もう1挺は対空用として、車長または装填手用ハッチ周囲のリング・マウントに装備される。 また、砲塔後部左右側面には、電気発射式の76mm発煙弾発射機が各4基ずつ装備されている。 この他、車内には乗員の携行火器として、9mm短機関銃MP2(イスラエル製のUZI)も装備されている。 車体後部の機関室は、防火隔壁によって戦闘室と分離されている。 エンジンは、MTU社製のMB838CaM-500 V型10気筒多燃料液冷スーパーチャージド・ディーゼル・エンジンを採用している。 排気量は37,400cc、出力は830hpである。 標準燃料はNATO F-54燃料で、190リッターで100km走行することができる。 燃料搭載量は、1,010リッターである。 トランスミッションは、ZF社製の4HP-250自動トランスミッションを採用しており、バイパス・クラッチ付きトルク・コンバーターと、ロック・アップ・クラッチ付きギア・トランスミッションの組み合わせである。 ギアは前進4段/後進2段で、電気油圧制御でスムーズな変速が可能となっている。 エンジンとトランスミッション、そして冷却システムはパワーパックを構成して、機関室に収容されている。 パワーパックは20分で交換可能となっていて、整備性も高い。 サスペンションはトーションバー式で、第1、第2、第3、第6、第7転輪には油圧式のショック・アブソーバーが取り付けられている。 特徴的なのは、各トーションバーのトラベル長が位置によって変えられていることで、こうした細かい配慮が良好な走行性能に繋がっている。 転輪はラバー付きのダブルタイプで、片側7組となっており、片側3組の上部支持輪を持つ。 履帯は、定評あるディール社製のダブル・ピン/ダブル・ブロック式、ゴム・ブッシュ付きである。 その他、特殊装備としてはシュノーケル装置があり、10分程度の準備で4mの潜水渡渉が可能となっている。 このため、車内には2台の排水ポンプも用意されている。 また、エンジン火災に備えてフロンガスによる消火装置も装備されており、自動ないし操縦手による手動で作動させることができる。 |
●改良型とその他の派生型 レオパルト1戦車には、数多くの改良型が存在している。 また、生産後の既存車体に改良が加えられるだけでなく、各生産バッチで改良型が生産されたのも特徴的である。 これは、長期の改良計画に則った発達を、レオパルト1戦車が遂げていったことの証といえよう。 レオパルト1戦車の各タイプは、大きく分けるとレオパルト1、レオパルト1A1、以下A2、A3、A4、A5となっている。 ☆レオパルト1戦車 レオパルト1戦車の内、最初の生産分の第1バッチから第4バッチまでは基本的に同一で、ごく些細な相違点しかない。 1965年9月から1966年7月までに生産された最初の400両が、第1バッチである。 これらの車両は、第I軍団(北ドイツ)の各機甲師団、機甲擲弾兵師団のM47中戦車に代替して配備された。 第2バッチは、1966年7月から1967年7月までに生産された600両を指す。 相違点は、砲塔後端底部に小さな樋が取り付けられたのと、乗員用の予備通話システムのボックスが角型から丸型になったこと、砲塔リングを守る跳弾板が取り付けられたことぐらいである。 これらの車両は、第I軍団および第III軍団(中部ドイツ)の各師団に配備された。 第3バッチは、1967年7月から1968年8月までに生産された484両である。 相違点は、車体前後にフックが追加されただけである。 これらの車両は、第III軍団の各師団に配備された。 なお、第3バッチからは16両がベルギーに輸出されている。 第4バッチは、1968年8月から1970年2月(外国向けは含まず)までに生産された361両である。 相違点は、後部側面冷却グリルの格子形状が違っている程度である。 第4バッチは外国に多数輸出されており、ベルギーが318両、オランダが468両、ノルウェーが78両、イタリアが40両をそれぞれ受領している。 ☆レオパルト1A1戦車 第4バッチの受領後、1970年になって西ドイツ軍では、これまで生産されたレオパルト1戦車の改良計画が開始された。 これは、戦闘能力を高めるのが目的で、最大の改良点として、主砲にアメリカのキャデラック・ゲージ社製の砲安定システムが追加されている。 これによって、レオパルト1戦車は行進間射撃が可能となり、初弾命中精度も向上している。 また、主砲にはサーマル・スリーブが装着され、車体両側面にゴムと鋼板のスカートが装備されるようになった。 足周りも、これまでのディール社製のD139E2ダブルピン履帯から、新型で、取り外し式ラバー・パッドの装着可能な、ディール社製のD640Aダブルピン履帯に変更されている。 これに伴い、滑り止めのグローサー20枚が、装甲防御を兼ねて車体前面に搭載されるようになった。 また、NBC防護装置にも改良が施され、新しいシュノーケル装置の装備で渡渉能力も強化されている。 夜間戦闘用には、これまでのアクティブ赤外線暗視装置から、操縦手、車長共に、パッシブ映像強化装置(スターライト・スコープ)が装備されるようになった。 これら一連の改修の結果、重量は41.5tに増加したが、機動力には変化は無い。 これらの改修は1972年以降、既生産の車両に採り入れられた。 改修を施された車両は、レオパルト1A1に名称が変更されている。 さらに、レオパルト1A1の防御力を向上させるため、ブローム&フォス社で、砲塔に取り付ける増加装甲が開発された。 この増加装甲は、ゴムの内張りを持つ防弾鋼板製で、砲塔表面にはゴムのショック・アブソーバーを介して、中空装甲式にボルト止めされている。 装甲板は、砲塔側面から後面の収納スペースまで囲うようになっている。 厚さは、前方から後方にかけて次第に薄くなっており、厚い部分で20mm、薄い部分で10mm程度となっている。 また主砲防盾にも、平面板を組み合わせた増加装甲が取り付けられている。 増加装甲板の一部は、エンジン整備などの便を考えて取り外せるようになっている。 また、エンジンの吸気口には防塵用のフィルターが装着された。 これらの改修の結果、重量がレオパルト1A1の41.5tから42.4tに増加している。 改修は、1975年から77年にかけて行われ、改修後の名称はレオパルト1A1A1に変更されている。 さらに、レオパルト1A1A1には1980年代以降、テレフンケン社製のPZB200パッシブ暗視装置が主砲防盾上、サーチライト脇に取り付けられるようになった。 この装置は、LLLTV(低光量テレビ)を中心としたシステムで、乗員は外部の状況を、砲塔内のTVモニターを使って見ることができるようになった。 PZB200パッシブ暗視装置が搭載されたA1A1は、レオパルト1A1A2に名称が変更されている。 さらに、SEM80/90デジタル通信機が装備されたA1A1はレオパルト1A1A3、そしてA1A2はレオパルト1A1A4とそれぞれ呼ばれる。 ☆レオパルト1A2戦車 レオパルト1A1戦車の改良を初めから盛り込んで生産されたのが、レオパルト1戦車の第5バッチ前期型である。 第5バッチ前期型は、1972年4月から1973年5月までに生産された232両で、本車は改良によってレオパルト1A2と呼ばれるようになった。 レオパルト1A2戦車の原型からの改良点は、レオパルト1A1戦車で記述した主砲安定装置、サーマル・スリーブ、アーマー・スカート、NBC防護装置、シュノーケル、改良型履帯、パッシブ暗視装置などである。 唯一オリジナルな改良としては、鋳造砲塔の装甲厚の増厚が行われている。 原型が60mmだったものが強化されたのだが、その値そのものは公表されていない。 レオパルト1A1A1戦車が同じぐらいの能力といわれるから、恐らく、前面から側面にかけて20〜10mm程度強化されたものと思われる。 レオパルト1A2戦車は、ほとんどが第6機甲擲弾兵師団に配属されて、デンマーク軍との共同演習に姿を現している。 また、レオパルト1A2戦車に小改良を施したものが、レオパルト1A2A1と呼ばれている。 また、SEM80/90デジタル通信機が装備されたA2はレオパルト1A2A2、同時にPZB200パッシブ暗視装置も搭載されたA2A1はレオパルト1A2A3と呼ばれる。 ☆レオパルト1A3戦車 1973年5月から11月までに110両生産された第5バッチ後期型は、レオパルト1A2戦車にさらに改良が盛り込まれたバージョンである。 本車は、全面的に設計を改めた砲塔を搭載していることが特徴で、名称もレオパルト1A3に改められている。 レオパルト1戦車の砲塔は、丸みを帯びた鋳造製であったが、これは、当時の戦車設計の常識といえた。 しかし西ドイツ軍は、この常識を覆す砲塔を作り上げたのである。 それは、中空装甲(スペースド・アーマー)といわれる、今に繋がる装甲方式を採用したもので、平面の装甲板が溶接で組み合わされた鋭角的デザインの砲塔であった。 中空装甲は、装甲板と装甲板の間に透間を設けたもので、それによって、特に対戦車ミサイルや、歩兵携行対戦車ロケットなどの成形炸薬弾頭に対する防御を図ったものである。 なお、中空装甲砲塔にしたおかげで、内部スペースは1.5m2増加したというから、戦闘動作の面でもメリットがあったようである。 また、装填手用ペリスコープが2基の固定式から旋回式に変わったことも細かな改良点で、砲塔以外ではレオパルト1A2戦車と特に相違は無い。 レオパルト1A3戦車は、多くが第II軍団(南ドイツ)の第10機甲師団と、第III軍団の第12機甲師団に配属された。 また、レオパルト1A3戦車に小改良を施したものが、レオパルト1A3A1と呼ばれている。 また、SEM80/90デジタル通信機が装備されたA3はレオパルト1A3A2、同時にPZB200パッシブ暗視装置も搭載されたA3A1はレオパルト1A3A3と呼ばれる。 ☆レオパルト1A4戦車 第5バッチの生産終了後、若干間が開いて、第6バッチが1974年8月から1976年3月までに250両生産された。 本車は、レオパルト1A3の改良型で、レオパルト1A4と呼ばれる。 レオパルト1A4のA3との相違点は、新しい射撃統制装置(FCS)が搭載されたことである。 このシステムは、テレフンケン社製の弾道コンピューターと、ツァイス社製のステレオ式測遠機、車長用の赤外線暗視装置付きPERI-R12安定化照準機から成る。 外形的には、車長用ペリスコープがこれまでの小さな潜望鏡状から、がっちりした塔状になったのが目立つ程度である。 ただし、新しいFCSはスペースを必要としており、そのスペースを稼ぐため、主砲弾薬搭載数がそれまでの60発から55発に減らされている。 レオパルト1A4戦車は、第10機甲師団の他、戦車学校にも配属されている。 ☆レオパルト1A5戦車 1980年代に入って、さらにレオパルト1戦車を改良する研究が進められた。 その目的は、レオパルト1戦車の生存性を向上させると共に、2000年以降も高い戦闘能力を維持することであった。 レオパルト1戦車は元々、ソ連のT-55中戦車やT-62中戦車などの戦後第1、第2世代MBTに対抗するために作られた戦車であるが、今や敵は、T-64、T-72、T-80戦車などの戦後第3世代MBTとなっていた。 レオパルト1戦車の改良しなければならない点は、夜間戦闘能力、発射速度/命中精度の向上、行進間射撃能力の強化などである。 そのため、赤外線サイト、新型射撃統制コンピューター、新型105mm砲弾などが検討された。 競作試験の結果、1983年12月、クルップ・アトラス・エレクトロニクス社製のEMES18 FCSが採用され、ヴェクマン社が主契約社となって改修が進められることになった。 改修は、1986年10月から1992年9月までに1,339両に施され、新たにレオパルト1A5の名称が与えられた。 レオパルト1A5戦車に採用されたEMES18 FCSは、レオパルト2戦車用に開発されたEMES15 FCSから派生したもので、多くのコンポーネントが共通となっている。 外観的には、砲塔上面右側に装甲カバー付きの熱線暗視装置、レーザー測遠機が組み込まれた統合光学照準機が設けられており、元のTEM-2A基線長式測遠機は撤去され、砲塔両側面の開口部はカバーで塞がれている。 弾道コンピューターは、車長席の下部に収納されている。 これは、レオパルト2戦車のものと同じもので、レオパルト2戦車の120mm砲の弾道特性から、105mm砲の特性にプログラムの修正が施されている。 弾道データは、7種類の弾種について4,000mの射程距離まで得られる。 コンピューター制御パネルは、砲手席上に装備されている。 車長用のTRP-2A照準機はそのままだが、EMES18のカバーをクリアーするために、少し背が高くなっている。 砲手用のTZF-1A照準機もそのままである。 また、新しい105mm砲弾としてDM23、DM33 APFSDS(装弾筒付翼安定徹甲弾)が採用され、装甲貫徹力が大きく向上している。 また、レオパルト1A1A1戦車に採用されたブローム&フォス社製の増加装甲も、砲塔に装着されている。 このレオパルト1A5戦車にSEM80/90デジタル通信機を装備したものは、レオパルト1A5A1と呼ばれる。 ☆レオパルト1A6戦車 レオパルト1A5戦車の実用化後も、レオパルト1戦車のさらなる改良が計画された。 1986年12月18日、連邦武器購入庁(BWB)はクラウス・マッファイ社に対して、2両のレオパルト1戦車を使用してPzAbwKW90と呼ばれる改修を指示した。 この改修は、主砲をレオパルト2戦車と同じラインメタル社製の44口径120mm滑腔砲Rh120に換装する他、新型FCSの装備、砲塔・車体への増加装甲の取り付け、IRシグネチュアーの減少といったもので、1987年に第2バッチと第5バッチの2両について改修が行われた。 この後、第41兵器技術センターでは、さらに4両のレオパルト1戦車を追加改修し、全部で8両のレオパルト1戦車を使用した比較試験が行われた。 その内訳は、2両が比較のための原型、3両が上記の改修車、さらに3両はそれに加えて、砲塔上面と車体前部にも追加装甲を施した車両である。 しかし、これらの試験は有効なデータを提供はしたが、結局、コストの問題などで、PzAbwKW90改修(改修車にはレオパルト1A6の名称が与えられる予定だった)は実現しなかった。 ☆ゲーパルト対空自走砲 ゲーパルト対空自走砲は、レオパルト1戦車の車体設計を流用して製作された新規車体に、スイスのエリコン社製の90口径35mm対空機関砲KDAを連装で装備した砲塔を搭載したものである。 砲塔前面に追尾レーダー、砲塔上部後方に捜索レーダーが装備されており、こうした形式の対空自走砲の嚆矢となった。 ドイツ陸軍だけでなく、ベルギーとオランダの陸軍でも採用されている。 ☆レオパルト・ローラント対空ミサイル・システム 本車は、レオパルトARV(装甲回収車)の車体に、ローラント対空ミサイル・システムを搭載する車両である。 ゲーパルト対空自走砲と共にドイツ陸軍の前線防空の要になるシステムとして、MaK、ブローム&フォス、ユーロミサイルの3社によって提案された。 現在では旧式化しているため、新型のローラント2への換装が計画されている。 この他のバリエーションとしては、砲兵観測車、ARV(ベルゲパンツァー2)、AEV(装甲工兵車)がある。 さらに、FFG社が開発中のマインブレーカー2000も、レオパルト1戦車の車体をベースに開発が進められている地雷除去車両である。 小規模な国際紛争の多発とPKOの増加を背景として、人員に替わる地雷除去任務を遂行するシステムとして期待されている。 |
<レオパルト1戦車> 全長: 9.543m 車体長: 7.09m 全幅: 3.25m 全高: 2.613m 全備重量: 40.0t 乗員: 4名 エンジン: MTU MB838CaM-500 4ストロークV型10気筒多燃料液冷スーパーチャージド・ディーゼル 最大出力: 830hp/2,200rpm 最大速度: 65km/h 航続距離: 600km 武装: 51口径105mmライフル砲L7A3×1 (60発) 7.62mm機関銃MG3×2 (5,500発) 装甲厚: 15〜70mm |
<レオパルト1A1A1戦車> 全長: 9.543m 車体長: 7.09m 全幅: 3.41m 全高: 2.764m 全備重量: 42.4t 乗員: 4名 エンジン: MTU MB838CaM-500 4ストロークV型10気筒多燃料液冷スーパーチャージド・ディーゼル 最大出力: 830hp/2,200rpm 最大速度: 65km/h 航続距離: 600km 武装: 51口径105mmライフル砲L7A3×1 (60発) 7.62mm機関銃MG3×2 (5,500発) 装甲厚: 15〜70mm |