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I号4.7cm対戦車自走砲

第2次世界大戦中、ドイツ軍は数多くの自走砲を開発、実戦化したが、そのトップバッターとなったのが、I号戦車B型をベースとして開発された、このI号4.7cm対戦車自走砲である。
元々I号戦車は、機甲部隊の再建に際し、訓練用の戦車として開発された車両であり、武装も7.92mm機関銃2挺と非力で、装甲も十分とはいえず、第2次世界大戦勃発前から旧式化していたため、自走砲への転用は適切な措置であったといえよう。

I号4.7cm対戦車自走砲の開発は、1939年に、旧式化したI号戦車の活用を検討したことに端を発する。
この検討で浮かび上がったのが、対戦車砲を備えた移動砲台への転用であった。
改造を最小限とするために、車体はそのままとして砲塔を取り外し、砲の操作を行い易くするため、車体上面の装甲板を切り取ってオープン・トップとして、4.7cm対戦車砲を装備するというのがその改造要領である。

主砲として選ばれたのは、1939年に併合したチェコスロヴァキアのシュコダ社が開発した43.4口径4.7cm対戦車砲M1938で、ドイツでは4.7cmPaK(t)と呼ばれるものであった。
この砲の性能は、Pz.Gr.36(t)徹甲弾(重量1.65kg)を用いて、砲口初速782m/秒、射距離100mで54mm(傾斜角30度)、500mで48mm、1,000mで41mmの均質圧延鋼板を貫徹することが可能であった。

さらにこの値は、Pz.Gr.40高速徹甲弾(重量0.825kg)を用いると、砲口初速1,080m/秒、射距離100mで100mm、500mで59mmにまで向上した。
これは、後にIII号戦車が装備する42口径5cm戦車砲KwK38とほぼ同等の性能であり、1939年当時の対戦車砲としては最も優れたものの1つであった。

砲の搭載は、オープン・トップの車体上部に鋼板および鋼管で組んだ架台を設けて、この上に防盾ごと載せており、その前面と左右側面を14.5mm厚の装甲板で囲んで戦闘室とした簡単なもので、廃物利用的な兵器としては極めて健全なポリシーで作られていた。
主砲は、左右各10度ずつの限定旋回式に搭載されており、86発の弾薬を車内に携行した。
乗員は、操縦手、砲手、車長の3名であった。

本格的な開発作業は、1940年2月からアルケット社の手で始められ、ダイムラー・ベンツ社とビュッシンクNAG社が戦闘室などの部品を製作し、これらの部品と、オープン・トップに改造したI号戦車B型をシュコダ社に送り、砲の搭載などの最終的な組み立てが行われた。
改造に際して用意されたI号戦車B型車体は229両で、1940年3月には早くも完成車が登場し、同年5月までに132両が完成したが、この時点で改造部品が足りなくなり、生産は中断されてしまった。

このため、新たにクルップ社が改造部品を製作することになり、1940年末までに70両分の部品が完成し、シュコダ社に送られて、翌41年3月にこの追加分の改造作業を終えた。
結局、I号4.7cm対戦車自走砲として完成したのは202両で、この内、追加分の70両は戦闘室が大型化されており、後期生産車として分類されている。

本車の初陣は1940年5月のフランス電撃戦で、第521、第616、第643、第670の、新編された4個独立戦車駆逐大隊に配属されていた。
なお、これら大隊は、3両の本車を装備する3個小隊から1個中隊を編成し、この中隊3個により大隊を編成していた。

I号4.7cm対戦車自走砲は、当時のIII号戦車やIV号戦車を火力で上回っており、8.8cm高射砲を除くと、フランス戦におけるドイツ軍の最も強力な対戦車火力であった。
本車はこれ以降、北アフリカ、ロシアと各地において活躍し、1943年末頃まで第一線で使用された。
I号4.7cm対戦車自走砲が、ドイツ軍最初の対戦車自走砲として、この種の車両の有効性を教えた意義は大きく、以後、各種戦車から様々な自走砲が生み出されることとなった。


<I号4.7cm対戦車自走砲>

全長:    4.42m
全幅:    2.06m
全高:    2.25m
全備重量: 6.4t
乗員:    3名
エンジン:  マイバッハNL38TR 直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 100hp/3,000rpm
最大速度: 40km/h
航続距離: 140km
武装:    43.4口径4.7cm対戦車砲PaK(t)×1 (86発)
装甲厚:   6〜14.5mm

















































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