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●開発 1941年6月22日、バルバロッサ作戦発動と共にソ連に侵攻したドイツ軍は、やがて、自分たちの戦車よりも防御力が高く、また、攻撃力も勝っているという信じられない戦車に遭遇した。 しかもそれは、KV-1重戦車、KV-2重戦車、T-34中戦車と多種類に渡っており、確実な対抗手段が8.8cm高射砲による水平射撃のみという事態に及んだ。 ソ連への侵攻を開始する前から、ドイツ軍は、チェコのシュコダ社製の4.7cm対戦車砲PaK(t)をI号戦車B型の車体に搭載したI号対戦車自走砲や、同じ砲をフランスから接収したルノーR35軽戦車に搭載した35R対戦車自走砲などの開発を行ってきたが、戦車はもちろんのこと、これらの対戦車自走砲でも、ソ連軍のT-34中戦車やKV-1重戦車の前には無力に等しかった。 このため1941年末、ドイツ軍は、II号戦車の車体を流用した新型の対戦車自走砲の開発を開始した。 車体として選ばれたのは、新世代II号戦車として開発されたものの、機動性などに難があったため、火焔放射戦車に改造されてしまったII号戦車D/E型であった。 火焔放射戦車として新たに発注された150両全てを、この自走砲に流用すると共に、完成した火焔放射戦車からも51両が改造されたため、その総数は201両となる。 搭載砲には、7.5cmクラスの砲が採用された。 当時、ドイツ軍では新型の中口径対戦車砲として、7.5cm PaK40の生産準備が進められていたが、とにかく、この自走砲は大急ぎで必要とされたため、なんと、ソ連侵攻初戦でドイツ軍がソ連軍から大量に捕獲していた、1936年型76.2mm師団砲F-22が使用されることになった。 F-22は、ソ連軍では野砲として設計されたものであったが、高初速で、対戦車任務にも使用可能になっていた。 ドイツ軍は、このF-22に自軍の用兵思想に合うように改造を加え、7.62cm PaK36(r) L51.5と名付け、II号戦車D/E型車体に搭載した。 車載にあたっては、これにさらに手を加えた装甲自走砲架1型が開発された。 本車の開発は、ベルリンにあるアルケット社の手で行われ、開発発注は1941年12月20日に出されている。 特殊車両番号は、当初はSd.Kfz.131であったが、後にSd.Kfz.132に変更されている。 また、ポーランド侵攻から2年以上も経っているのに、LaS762(農業用トラクター762型)という対外用公式名称も与えられている。 本車の正式名称は、「7.62cm PaK(r)搭載II号戦車自走砲」であり、「マルダーII」というのは通称である。 |
●主砲と砲架の構造 前述のように、マルダーII対戦車自走砲の主砲の原型となったのは、ドイツ軍がソ連侵攻初戦でソ連軍から大量に捕獲した、1936年型76.2mm師団砲F-22である。 F-22は、ソ連軍では野砲として設計されたものであったが、高初速で、対戦車任務にも使用可能になっていた。 ドイツ軍は、F-22を捕獲した当初、7.62cm FK296(r)=296型野砲(ロシア製)という名称を付けて、そのまま使用していた。 しかしこの砲は、左側に旋回用ハンドルがあるのに対し、俯仰用ハンドルは右側にあった。 従って、そのための砲手も2名が必要であり、運用上、合理的かつ効率的でなかった。 そこでドイツ軍は、大量に捕獲したこの砲の有効利用を考えて、砲手が1名で旋回も俯仰操作もできるように改造を行うこととし、新たに7.62cm PaK36(r)=36型対戦車砲(ロシア製)という名称が与えられることになった。 改造は、照準機のある左側に俯仰操作用ハンドルを移動させる主旨で行われた。 それにはまず、揺架後半の両サイドに鉄板をボルト止めし、その間(砲の下)にシャフトを通して、左側にハンドルを取り付けた。 右側にはギア&ハウジングを用意して、元々右側にあった俯仰操作機構に結合するようにした。 これと同時に、揺架の左側にあった照準機用上部アームは切断され、新たに照準機用架台が、より低い位置に取り付けられた。 照準機自体も、7.5cm PaK40等と同型の、直接望遠式ZF 3X8型が装備された。 照準機位置の移動も原因の1つと思われるが、防盾も新しく作り変えられている。 しかし、7.62cm PaK36(r)が野砲から対戦車砲に名称変更されたのは、単にハンドルの位置を変えただけが理由ではない。 この砲には、もう1つ重要な改造項目があった。 それは、薬室の拡大である。 7.62cm FK296(r)は、野砲としての性能は良好な方であったようであるが、対戦車砲としては、ドイツ軍的には不満があったようである。 そこで、類似口径砲である新型の7.5cm PaK40と同一の薬莢が使用可能なように、砲尾を改造したわけである。 しかし、類似とはいっても、わずかだが口径が違うため、7.5cm PaK40用砲弾をそのまま使用するわけにも行かなかった。 というのも、一応それでも発砲は可能であったが、7.62cm PaK36(r)の方が口径が大きいため、砲口から発射ガスが漏れて、貫徹力も命中精度も低下したからである。 このためドイツ軍は、砲弾も自ら加工して用意することとした。 すなわち、捕獲したF-22用砲弾の弾頭部にPaK40用薬莢を取り付けるという、PaK36(r)専用砲弾である。 7.5cm PaK40用砲弾の薬莢部は約70cmの長さがあったが、オリジナルのF-22用は、それより約25cmも短かったというから、かなりの性能向上が見込まれた。 実際に、7.62cm PaK36(r)の性能は、7.5cm PaK40に限りなく近付き、Pz.gr.39徹甲弾(重量7.54kg)を用いて、初速740m/秒、射距離100mで98mm、500mで90mm、1,000mで82mmの装甲板を貫徹することが可能となった。 さらにこの値は、Pz.gr.40高速徹甲弾(重量4.05kg)を用いると、初速990m/秒、射距離100mで135mm、500mで116mmにまで向上した。 砲の性能が向上したことにより、発砲時の衝撃負荷が大きくなり、7.62cm PaK36(r)にはダブル・バッフル型のマズルブレーキが標準装備されたが、未装備のものもあった。 ドイツ軍は、7.62cm PaK36(r)専用砲弾を少なくとも6,340発作っており、PaK36(r)装備部隊に配付した。 ところが、この砲弾は外見上、7.5cm PaK40用砲弾とそっくりであったため、混同を招く恐れがあった。 7.5cm PaK40用砲弾は7.62cm PaK36(r)でも撃てるが、その逆は不可であった。 7.5cm PaK40の砲身内口径は7.62cm PaK36(r)専用砲弾よりも小さいので、塘内爆発等の事故原因になり、危険であった。 そのため、両者の砲弾は混同を避けるため、7.62cm PaK36(r)専用砲弾の弾頭部には、識別用として白ペイントが施された。 7.62cm PaK36(r)自走砲化計画のためには、野戦型の脚付き砲架から、車載用の固定砲架への変更が必要となり、これは新しく設計されることになった。 この専用砲架はPz.Sfl.1(装甲自走砲架1型)と名付けられ、ベースとなるII号戦車(D/E型)に合わせて開発された。 装甲自走砲架1型は、II号戦車の上部車体に合わせて前後に長い形をしていた。 これは溶接式の箱組みで、前後には直立した脚部(やはり板組み)があり、その両サイドに、車体へ固定するボルト穴(計4個)があった。 また、先端部には簡単なトラベリング・クランプが装備された。 砲の揺架は、砲架の後部に設置されていた。 従って砲は、車体の中央部分に位置していた。 |
●車体の構造 マルダーII対戦車自走砲のベースになったII号戦車D/E型は、快速戦車として1938年に43両のみ生産された軽戦車である。 本車は、初期のドイツ軍車両としては珍しいことに、上部転輪を持たない大直径転輪5個で構成された、トーションバー・サスペンションによる走行装置を装備していた。 路上最大速度は55km/hと、他のII号戦車の40km/hよりも速く、確かに快速ではあった。 しかし、それ以外に取り柄は無く、あえて、それまでのII号戦車に取って代わるほどの車両ではなかった。 だが幸運なことに、当時、火焔放射戦車の必要性が高まり、この車両がそのベースとなることが決定された。 無論、これは一種の廃物利用であったが、試作車両が良好だったのか、最初の生産発注は一気に90両であった。 従って、単なる廃物利用ではなくて、シャーシーが新規生産されることとなった。 生産は1940年1月から始まり、以前からあった通常型戦車も全てこれに改造された。 第2期分の発注は150両であったが、これは、途中でマルダーII対戦車自走砲への転用が決定したため、完納されなかった。 そのため、1942年3月までに、通常型戦車からの改造43両および、新規生産分112両で生産は終了した。 元々、火焔放射戦車の開発要求は1939年に出されており、目的は要塞やトーチカの攻撃用であった。 しかし、東部戦線ではそのような活躍の場は少なく、戦況も、火焔放射戦車より対戦車車両の方が重要視される状況になっていたため、火焔放射型の生産が打ち切られたとされている。 ちなみに、II号戦車D型とE型の明確な相違点についてはよく分かっていないが、通常、D型は履帯がドライ式のシングルピン型で、E型は、ゴムパッド付きのベアリングとグリスを封入した湿式ピン型(これに付随して、起動輪や誘導輪の形状も違う)といわれている。 マルダーII対戦車自走砲への改造にあたって、ベースとなったII号戦車車体はそのまま用いられたが、機関室の隔壁から前方の上面装甲板は切り欠かれ、その中央に、装甲自走砲架1型がボルトで固定された。 砲部分は7.62cm PaK36(r)そのままであり、マズルブレーキは必ず取り付けられていた。 防盾は野戦型と違って、側面までカバーする、14.5mm厚装甲板による溶接構造のものが新たに取り付けられた。 これには天板は無く、前面2カ所と側面各1カ所に、ペリスコープ装備用のブラケットがあった。 当初、防盾は装甲板4枚を溶接した小型のものが用いられたが、生産中に、6枚の装甲板を用いた大型のものに変わり、防御力の強化が図られている。 砲の射角は左右各25度、俯仰角は−5〜+16度であった。 上部車体の周囲には、前面30mm厚、側、後面14.5mm厚の装甲板を用いた、大きな戦闘室が新設された。 傾斜は、前面9度、側面20度、後面15度とされている。 この戦闘室は、前方は操縦区画の上から、後ろは最後部までで、横はフェンダーの幅いっぱいに設置されていた。 この幅に関しては理由があって、スペースの関係上、機関室上部が戦闘室の床代わりに使用されたため、空間確保のために機関室上部を、外側にプラットホームとして延長する必要があったからである。 砲防盾後ろの戦闘室側面には、両側に四角い形状の折り畳み式シートがあり、砲手と装填手はこれを利用した。 主砲の駐退レール後方の機関室上面には、もう1つのトラベリング・クランプが装備されていた。 本車の主砲弾薬の携行弾数は30発であったというが、その搭載位置は明らかになっていない。 乗員は、操縦手、砲手、装填手、車長の4名であった。 |
●生産と部隊配備 マルダーII対戦車自走砲の生産は、1942年初めより、アルケット社およびカッセルのヴェクマン社で行われた。 初回の発注分は150両で、これは1942年5月12日までに完成した。 続いて60両の追加発注がなされたが、これは、前線より回収されたII号火焔放射戦車を改造して作られた。 本車の生産は1943年6月まで続けられ、合計で201両が完成している。 本車は、1942年4月より、機甲師団および機甲擲弾兵師団の戦車駆逐大隊(自走式)に配備されているが、配備先の詳細は明らかになっていない。 現在知られているところでは、第1〜第5SS機甲師団、ヘルマン・ゲーリング機甲擲弾兵師団、第16自動車化歩兵師団、グロスドイッチュラント機甲擲弾兵師団等である。 マルダーII対戦車自走砲は、主に東部戦線に投入され、強力な対戦車火力として、1944年初め頃まで第一線で活躍した。 |
<II号7.62cm対戦車自走砲マルダーII> 全長: 5.65m 車体長: 4.64m 全幅: 2.30m 全高: 2.60m 全備重量: 11.5t 乗員: 4名 エンジン: マイバッハHL62TRM 直列6気筒液冷ガソリン 最大出力: 140hp 最大速度: 55km/h 航続距離: 220km 武装: 51.5口径7.62cm対戦車砲PaK36(r)×1 (30発) 7.92mm機関銃MG34×1 (900発) 9mm機関短銃MP40×1 (192発) 装甲厚: 5〜30mm |