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38(t)駆逐戦車ヘッツァー

1943年11月26日、連合軍の爆撃によってアルケット社の工場が大きな打撃を受け、III号突撃砲の生産が一時ストップしてしまうことになった。
このため、以前よりクルップ社が提案していた、IV号戦車を車体として用いる突撃砲を急遽生産に移行する一方で、38(t)戦車の車体を用いて各種自走砲の生産に取り組んでいたチェコのBMM社に対し、III号突撃砲の生産を行えないかと打診した。

しかし、工場の生産施設の関係から、24tのIII号突撃砲G型の生産はBMM社では不可能であり、これを知ったヒトラーは改めてBMM社に対して、重量は13tを限度とし、装甲は薄くとも可、そして路上最大速度60km/hの軽駆逐戦車の開発を命じた。
この要求に従って、BMM社は早速開発作業に着手し、1943年12月には設計図を完成させ、翌44年1月24日に早くも木製のモックアップが出来上がっている。

車体は38(t)戦車をベースにしており、部品の80%は共通となっていたが、車内容積の確保のため、幅が広げられた専用の車台が用いられた。
主砲には、48口径7.5cm対戦車砲PaK39が採用され、戦闘室容積の妨げとならないように前面の装甲板に張り出しを設けて、この中に砲架を収容するという方式が採られた。

このあたりは、すでに開発が進んでいたIV号駆逐戦車を参考にしたものと思われる。
車体上部は、機関室まで一体となる戦闘室が載せられていたが、各装甲板は大きな傾斜角が与えられ、非力な装甲を避弾経始で補おうと画策したことが良く分かる。
また、戦闘室上面に車内から遠隔操作する機関銃を採用したことも、本車の特徴といえよう。

1944年3月には試作車3両が完成して試験に供されたが、従来の38(t)戦車車台を用いた各種対戦車自走砲と比べて全高はかなり低く、密閉式の戦闘室はオープン・トップの自走砲より防御力が大きく向上していることは明らかであった。
このため、直ちに生産が行われることが決まり、1944年4月に生産車の引き渡しが開始され、1945年5月までにBMM社とシュコダ社で合計2,827両が生産された。

戦闘室には乗員4名が配されており、主砲は大きく右側にオフセットして装備されたが、このため、右側のサスペンションには左側よりも850kg余分に重量が加わったといわれる。
また、車体前部にも重量がかかり、10cmほど前部が沈んでしまったが、強化型エンジンの採用などにより、走行性能にはさほど影響は無かったようである。

生産中に、他の戦車や自走砲同様、各部に改良が盛り込まれ、簡略化も図られたので、生産時期に応じて細部は変化していった。
本車は当初、38(t)軽駆逐戦車と呼ばれたが、1944年12月に、制式名称として「ヘッツァー(勢子)」の名称がヒトラーより与えられている。

1944年7月から、戦車猟兵大隊を皮切りに、主に歩兵、猟兵、擲弾兵、騎兵、そして国民擲弾兵師団の戦車猟兵中隊へと逐次配備されていった。
1944年8月から1945年1月までは、各戦車猟兵中隊は14両のヘッツァー駆逐戦車を有していたが、1945年2月以降は、多数の部隊に配備できるようにするため、各中隊当たりわずか10両の交付とされた。

ヘッツァー駆逐戦車は、高い稼働率に支えられ、大戦末期のドイツ軍の戦車戦力の一翼を担っている。
このため、終戦後もスイス陸軍やチェコ陸軍でしばらく使用されていた。
派生型としては火焔放射戦車が生産され、1944年12月のアルデンヌ攻勢時には約20両が投入されている。

<ヘッツァー駆逐戦車>

全長:    6.27m
車体長:   4.87m
全幅:    2.63m
全高:    2.17m
全備重量: 15.75t
乗員:    4名
エンジン:  プラガAC/2 直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 158hp/2,600rpm
最大速度: 42km/h
航続距離: 178km
武装:    48口径7.5cm対戦車砲PaK39×1 (41発)
        7.92mm機関銃MG34またはMG42×1 (1,200発)
装甲厚:   8〜60mm



















































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