HOME WAR TOP 戦車 戦車年表
IV号戦車/70(V)

●開発


1942年9月に行われた、IV号戦車シャーシーの駆逐戦車に関する陸軍兵器局の基本協議において、主砲を70口径7.5cm砲とする要求が出された。
この70口径7.5cm対戦車砲PaK42は、第2次世界大戦中の対戦車兵器の中では傑出した存在であり、パンター中戦車用にマズル・ブレーキ付き戦車砲(KwK)として開発されたものを、後座量を変えることによって、マズル・ブレーキを必要としない駆逐戦車用の構造としたものである。

兵装には電気撃発装置付き半自動式機構が採用されており、徹甲弾および榴弾(完全薬筒型砲弾)が発射可能であった。
APCBC弾(風帽付き被帽徹甲弾)を使用した場合、初速925m/秒、射距離1,000mで111mm、2,000mで89mmの装甲板を貫徹可能であった。

この火砲の優位性にも関わらず、当初はまだ、IV号駆逐戦車にそれを搭載することは考慮されていなかったが、その理由は、1944年1月の生産時点で、48口径7.5cm対戦車砲PaK39が大量に装備されていたためである。
1944年1月25日から27日にかけての総統会議の中で、70口径7.5cm対戦車砲の装備について再び話し合いが行われ、技術的問題が解決され、かつ十分な生産量が確保され次第、この長砲身砲はIV号駆逐戦車に装備されることとなった。

1944年4月初めに陸軍兵器局は、改造した70口径7.5cm戦車砲KwK42を呈示し、それを1両のIV号駆逐戦車(シャーシー番号No.320162)に組み込んだ。
1944年4月6日、ヒトラーは同車の写真を見て、この70口径7.5cm対戦車砲付き駆逐戦車こそが、戦車工学が生んだ究極的形態であると確信したのだった。

1944年4月20日に同車はヒトラーの査閲を受け、彼はこの駆逐戦車の生産計画を、最終月産数800両に引き上げることを命じた。
1944年5月4日の陸軍兵器局の長期生産計画によると、1944年4月から1945年4月までの年間生産数は、両タイプのIV号駆逐戦車を合わせて2,020両という要求が出されている。

ヒトラーは1944年7月18日に、この駆逐戦車の名称を「IV号戦車ラング(V)」とすることを命令したが、添字の”V”は開発担当会社のフォマーク社を表しており、同時に、この車両の独占製造メーカーであることも意味していた。
この駆逐戦車と、長砲身43口径および48口径7.5cm戦車砲搭載のIV号戦車を区別するため、部隊ではIV号戦車/70(V)の名称が好まれたが、この名称は、陸軍兵器局が1944年11月に初めて公式に採用したものであった。


●特徴


IV号駆逐戦車を新型戦車砲搭載型に改装するために、生産ライン全体の変更が必要となった。
内装式および外装式防盾は、重量削減のため変更されることとなったが、その際、装甲防御力の低下は許されなかった。
補助的に外部に装着されたトラベリング・ロック(砲身支持架)は、起伏が激しい地形では照準の修正を妨げることが分かった。

いずれにせよ、車体から大きく突き出した長砲身は、困難が伴うことははっきりとしていた。
簡易な戦闘室用ベンチレーターの代わりに砲身送風装置が設置され、砲身内部の硝煙を射撃後迅速に排出できるようになった。

その他に、砲弾格納ラックは、より長く、より直径が大きくなった70口径7.5cm対戦車砲PaK42の砲弾用に変更され、また、重量削減の理由により、本来は車体前方右手に設置されていた弾薬架が撤去されたため、携行砲弾数は55発となった。
すでに、48口径7.5cm対戦車砲PaK39搭載のIV号駆逐戦車でさえもノーズヘビーであったが、この欠点は、長砲身砲の搭載のためにますます増長されることとなった。

1944年5月16日に兵器実験部第6課は、ボギーホイールサスペンション(走行転輪懸架装置)全体を100mm前方に移動することを提案しており、これは、重心に対して好ましい影響を与えると考えられることから、車両の設計に採り入れるよう要求された。

しかし、最前部のボギーホイールはすでに起動輪にかなり接近しているため、これ以上前方に移設すると、両方の走行機構の部分的接触を招く可能性があり、もしそうなった場合、起動輪によって第1走行転輪が損傷を被るのは明らかであった。

1944年8月10日に、さらなる前面装甲の軽減と、両側面の前部ボギーホイールにゴム内蔵省力型鋼製走行転輪を組み込む要求が出された。
ヒトラーは1944年8月11日に、前面装甲を60mmに低減するよう命令したが、この命令は実行されず、前面装甲は全生産期間を通じて80mm厚のままであった。

結局、問題の解決策としては、両側面の前部ボギーホイールを鋼製走行転輪付きとし、軽量型履帯を採用するだけとなった。
この2つの変更は1944年9月に実施され、この他に、後部機関室の上に設置されていた2個の予備走行転輪も、鋼製走行転輪に置き換えられた。

1944年8月と9月に実施されたその他の変更は、IV号駆逐戦車の改修意見を反映したものであった。
最初に明らかな相違点が生じたのは1944年11月になってからであり、後部装甲板中央に牽引装置が溶接され、2t補助クレーン用のピルツが戦闘室上面に装備された。
さらに、同上面に測遠機用ホルダーとして、3個のピボット(取り付け座)が設けられることとなった。

1944年11月4日に、IV号戦車においては不可欠であったブレーキ用換気口カバーが、IV号駆逐戦車では不必要であるとの決定がなされたため、車体前部装甲板上面にあった換気口フードカバーは撤去された。
ブレーキ用の換気は換気ダクトを通じて行われ、ブレーキの熱と煙は後方の機関室に排気され、空冷ベンチレーターによって外へ排出されるシステムが採られており、この変更は、すでに最初のIV号駆逐戦車から採用されているものであった。

IV号駆逐戦車全車と大部分のIV号戦車/70(V)は、IV号戦車F型用のパイプ溶接式誘導輪を使用していたが、スペア部品の欠乏により、1945年2月〜3月の期間には、まだ在庫が残っていたIV号戦車H型の鋳造式誘導輪を流用した。


●生産


フォマーク社は1944年8月に、最初の57両のIV号戦車/70(V)を製造し、陸軍兵器局は同じ月内に検査を行った。
1944年9月には41両が継続生産され、10月には104両と増加し、11月には178両、1944年12月には180両が製造され、1945年1月には185両という最高月産数に達した。

しかし、スペア部品の供給と停電の問題により、1945年2月の生産数は135両、3月には50両に低下した。
1945年3月19日、21日と23日のプラウエンを目標とした空襲により、最終的に生産が終焉したため、結果として総計930両のIV号戦車/70(V)が製造されたことになる。


●実戦投入


新しく編成中の戦車旅団が、最初の部隊としてIV号戦車/70(V)を受領したが、旅団の3個中隊はパンター中戦車を装備していたため、第4中隊が戦車猟兵中隊として11両のIV号戦車/70(V)を装備することとなった。
第105と第106戦車旅団が、1944年8月に各々11両のIV号戦車/70(V)を受領し、1944年9月には、5個戦車旅団(第107、第108、第109、第110および総統護衛戦車旅団)に各々11両が配備された。

第105から第108戦車旅団までは西部戦線に投入され、第109と第110戦車旅団は東部戦線に投入された。
その他に、1944年9月にさらに10両のIV号戦車/70(V)が、西部戦線の第116機甲師団へ補充として配備され、同年11月にはさらに10両が、東部戦線の第24機甲師団へ送られた。
1944年10月から12月にかけての割り当ての大部分は、各戦車猟兵大隊の戦力回復に充てられ、一部は1944年12月のアルデンヌ攻勢や、すぐ後に続いて実施された1945年1月の北風作戦に投入された。

機甲師団内の各戦車猟兵中隊にはそれぞれ10両のIV号戦車/70(V)、機甲擲弾兵師団と軍直轄重戦車猟兵大隊(駆逐戦車大隊)内の各中隊には、それぞれ14両のIV号戦車/70(V)が配属されることとなっており、陸軍車両局から手配された引き渡し順に、次のような部隊がIV号戦車/70(V)を受領した。

台数 発送日 部隊
6 1944年10月6日 第560軍直轄重戦車猟兵大隊
21 1944年10月20日 SS第1機甲師団
21 1944年10月21日 SS第12機甲師団
7 1944年10月25日 第560軍直轄重戦車猟兵大隊
21 1944年11月9日 SS第9機甲師団
21 1944年11月13日 パンツァーレーア師団
15 1944年11月14日 第560軍直轄重戦車猟兵大隊
20 1944年11月18日 SS第2機甲師団
28 1944年11月25日 第655軍直轄重戦車猟兵大隊
4 1944年11月28日 第9機甲師団
3 1944年12月2日 第560軍直轄重戦車猟兵大隊
9 1944年12月4日 第519軍直轄重戦車猟兵大隊
17 1944年12月4日 第3機甲擲弾兵師団
16 1944年12月7日 第559軍直轄重戦車猟兵大隊
3 1944年12月7日 第655軍直轄重戦車猟兵大隊
3 1944年12月9日 SS第10機甲師団
10 1944年12月14日 第9機甲師団
5 1944年12月14日 第116機甲師団
11 1944年12月14日 パンツァーレーア師団
2 1944年12月14日 第559軍直轄重戦車猟兵大隊
7 1944年12月15日 SS第10機甲師団
5 1944年12月21日 第15機甲擲弾兵師団
22 1944年12月26日 第25機甲擲弾兵師団
17 1944年12月27日 第21機甲師団

アルデンヌ攻勢の開始時には、210両のIV号戦車/70(V)が西部戦線の部隊に配備されており、攻勢の終了までの間にさらに90両が部隊に送られた。
一方、1944年12月の第2半期の間は、専ら関心は東部戦線の苛酷な戦闘に向けられており、補充として第7、第13と第17機甲師団の戦車猟兵大隊に、各21両のIV号戦車/70(V)が配備され、第24機甲師団は19両を受け取った。

全戦線の状況は悪化の一途をたどっているのは明らかであったが、正規の編成計画はこれを考慮しないままであり、日ごとに大きくなる前線の綻びを塞ぐという試み、ないしは分析評価は、行き当たりばったりのその日暮らしの仕事となっていた。

装甲車両は、前線部隊に交付されるやいなや使用され、乗員の新型車両に対する訓練時間も無い有様であった。
輸送用の貨車が車両の荷降ろしをして走り去ると同時に、車両は実戦投入されており、次のような部隊においても状況は同様であった。

・第563軍直轄重戦車猟兵大隊−1945年1月に31両のIV号戦車/70(V)
・第9戦車連隊/第II大隊−1945年1月に26両のIV号戦車/70(V)
・歩兵師団デーベリッツ−1945年2月に10両のIV号戦車/70(V)
・第303戦車大隊(シュレージェン)−1945年2月に10両のIV号戦車/70(V)
・第510戦車猟兵大隊−1945年2月に10両のIV号戦車/70(V)
・戦車大隊ユーテルボク−1945年2月に10両のIV号戦車/70(V)
・SS擲弾兵師団ノルトラント−1945年3月に10両のIV号戦車/70(V)

残りのIV号戦車/70(V)のほとんどは、東部戦線向けの補充として積載輸送されており、1945年1月から3月の間にそれを受領した部隊は次の通りである。

部隊 台数 部隊到着時期
機甲擲弾兵師団グロスドイッチュラント 21 1945年1月
第10機甲擲弾兵師団 10 1945年1月
第21機甲師団 6 1945年2月7日
第7機甲師団 17 1945年2月8日
第17機甲師団 28 1945年2月8日
SS第2機甲師団 8 1945年2月17日
SS第1機甲師団 11 1945年2月18日
SS第9機甲師団 12 1945年2月18日
SS第12機甲師団 21 1945年2月18日
第25機甲師団 10 1945年2月21日
第10機甲擲弾兵師団 10 1945年2月22日
第20機甲擲弾兵師団 20 1945年2月26日
第25機甲師団 10 1945年3月2日
第8機甲師団 10 1945年3月5日
第20機甲師団 10 1945年3月
第13機甲師団 8 1945年3月21日

西部戦線を支えるための絶望的な試みとして、最後のIV号戦車/70(V) 59両が、様々な部隊の補充用として西部戦線に送られた。
そのうち17両が1945年3月16日、21両が4月3日、20両が4月4日、そして残りが4月8日に最前線に到着した。


<IV号戦車/70(V)>


全長:    8.60m
全幅:    3.17m
全高:    1.96m
全備重量: 25.8t
乗員:    4名
エンジン:  マイバッハHL120TRM 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 300hp/3,000rpm
最大速度: 35km/h
航続距離: 210km
武装:    70口径7.5cm対戦車砲PaK42×1 (55発)
        7.92mm機関銃MG42×1 (1,200発)
装甲厚:   10〜80mm























































inserted by FC2 system